帰還困難区域を走る
2017/08/30

帰還困難区域を走る

もう40年もの縁となる盛岡。ここの重鎮の言葉はいつも重く的確に刺さる。なぜなら、その博雅と共に、ずっとライブを聴き続けての発言だからだ。お蔭で年に一二度、演奏家として区切りとなる日を迎える。この日、渋谷毅さんと小生との演奏を聞き終えた氏は(未だ曲名を知らない時点で)、「3曲目にやったあの曲。言葉にできない、絵にも描けない、芝居にもできない、音楽でしかあり得ない男と女の……」と譬えた。これには恐れ入った。演奏したのは”愛の語らい(Falando de amor/A.C.Jobim)”だった。

郡山のお店は、ジャズ、ボサノバ、ギターファンだけではなく、ロック、ポップス、そしてジャンル分けできないような新しい音楽まで、幅広いお客さんが集まる。二年ぶり二度目の訪店ということもあって、趣向を変え、一曲ずつまつわる話をした。ワークショップなどの経験から喋ることは苦手ではないが、ステージではいつも、真反対の演奏家側にスイッチが切られている。両方交互に行うことは私にとっては一人二役となる。質問を戴くと、独演会特有の孤独感も薄らぎそれは話し易い。忘れていた事を思い出したり、また、自分の演奏を日常会話のように説明するということも楽しい。エネルギーは倍必要だが演奏は楽になる。お客さんとの距離が縮まるからだと思う。

 

盛岡、郡山の方々にエネルギーを貰った翌朝、2017年8月28日、郡山駅前のレンタカー屋さんに向かった。15年5月に車で回った東京電力福島第一原子力発電所周辺地域のその後を、自分の目で確かめたく、自分で運転できるうちにと再訪を決めていた。磐越自動車道から常磐自動車道に入り、いわき中央インターで降り、国道6号線を北上する。いわき市四倉から双葉郡広野町までは海岸沿いを走る。”道の駅ならは”は未だ双葉警察署の臨時庁舎として利用されている。

 

富岡町に入ると3.11のまま手つかずの建物も多く、街道の反対側に視線を向ければ、見渡す限り放射性物質汚染廃棄物いわゆる除染袋が置かれている。6号線は南北に走るこの地域の動脈、あらゆる用途にこの道を使うしかないのだが、駅、町、住宅に入るための横道は全て封鎖されている。ここは高放射線量の帰還困難区域だ。スチール製で蛇腹式のフェンスの前には、立ち入りを管理する普通のユニフォーム姿の警備員が二人態勢で立っている、大丈夫なのか。

 

これらの廃墟にはフェンスすら無い

 

 
フクイチから2km弱の長者原交差点を抜け、浪江町のコンビニに着いた。行程の半分を終え一服。浪江町役場の前にあるここは、フクイチから一番近いのだろうか。原発、復興関係者の方々にとってのオアシスの空気が漂う。おでんの品数が相当多い。ここでUターン、6号線を南下し、再度フクイチの横を通り、今度は高速を通らず、国道288号線でほぼ真西にある郡山に帰る予定を組んだが、行けども封鎖が続きなかなか右折できず西に向かえない。ここではもはやカーナビに頼れない。しばらく下ってようやく右折車線にいる車を見つけ着いていった。標識を頼りに288号線を目指す。帰還困難区域では、住民と二輪車に行き交うことは無い。人の手から離れた草木、野山はどこかなにかが違う。

 

浪江町役場前

 
288号線に入ったところで、元住民の物だろうか放置車両が二台ほどあった。車に轢かれた小動物を貪る退かない数羽のカラスに遭遇した。郡山の人から、動物の飛び出し事故で、こちらも廃車になることも少なくないと注意を受けた。この地域の様子を描いたドキュメンタリー映画※からも、生態系が変わり危険が高まったことは知らされていたが、実際に走るとそれは想像以上の緊張感だ。前方を遠く見渡せる時はセンターラインを跨いで走った。田村市に入った頃か、おばあさんとすれ違ってやっと緊張の糸が解れだした。しばらくして児童三人を見かけたときは、体の中に何かが流れ出すような感じすらした。

 

 
総走行距離218km、実は道を間違えたのも合わせると240は越えたか。目に見えない汚染はされてしまったが、福島の自然の美しさ、それを財産とする人々の力が走らせてくれた。往路、”道の駅よつくら港”での昼食、オバちゃん達が作っていた塩ラーメンがなんとも優しく旨かった。

 

道の駅よつくら港の顔!

 

 

※ドキュメンタリー映画「福島生き物の記録4/岩崎雅典監督」

避難指示区域の概念図(経済産業省HPより/平成29年3月10日公表)

 

 

日本人が貰った言葉
2017/08/26

日本人が貰った言葉

雑誌「東京人」2017年9月号の特集<阿久悠と東京(生誕80年、作詞家活動50年、没後10年)>、80ページ近くにも及ぶそれは、戦後から平成に掛けての世相を、阿久悠氏の詞を通し、関係者等の証言、思い出、そして貴重な資料によって綴られる。

私事、18歳という遅さで音楽を始め、それを生業としようとしたこともあって、当時隆盛を極めていたフォーク、歌謡曲、ポップスなどにはまったく興味が向かなかった。中略……地方公演の打ち上げも三次会四次会となれば、カラオケスナック(Boxではなく)に行く事も間々あるのだが、これが意外に嫌ではない。何も知らないのだから、いくら勧められても歌う曲は無く、だた呑む、それも普段呑まないウィスキーの水割り。人が歌うのを聴き、モニター画面の詞を読むのは好きだ。こういうときでもないと歌詞と向き合うことも無かった。店中大合唱になっても初めて聴く曲だったりしながら、大ヒットした所以に納得した。


誌にある阿久悠氏の詞の数々、流行音痴の私でもけっこう思い出す曲があった。意識的では無くも、テレビ、ラジオ、街、どこかで聴いてきたのだ。いまそれをこうして文字で読めば、なぜあれだけ多くの人に長きに渡って受け入れられているかが分かる。

日本語を母国語とする人を日本語人=日本人と認識する。その日本人に向け、移りゆく時代の中、これ以上ない言葉を選び、独自に組み合わせ、世に名曲を送り出してきた氏。それは日本人に寄り添い、突き刺さった。現代を生きる歌手、作詞家、我ら作曲家、演奏家、そして多くの聴衆は、これからもこの残された言葉を噛み締めるのだろう。

 

 

72年目の夏
2017/08/07


2017年8月6日、72回目の広島原爆の日。灯籠流しへと向かう平和記念公園内を大きくを蛇行しながら約1時間強はかかる川岸までの列も、年々オペレーションが進化しスムースになってきた。世界中の人が並ぶこんなにも秩序だった行列はあるのだろうか。数歩進んではまた停止を繰り返す中、普段考えないことが頭を巡っていく、必要な時間だ。思い思いのメッセージを書き込んだ色紙を、岸壁に控えるボランティアさんが、用意してある灯籠の骨組みに巻きつけてくれて組み立て完了。言葉を託され、蝋燭が灯ると、灯籠に生命が宿る。しかし儚くも、手にしてから2、30秒後には川面に浮かばせて下流へと遠ざかって行く。
川岸は石の階段になっていて水位ギリギリまで近づけるのだが、両手は灯籠で塞がり、しゃがみこみ、揺れる水面と咲散る灯籠にも目を奪われ、足元は不安だ。この写真には写っていないが、灯籠を流すその辺りには、胸まで水中に浸かったライフセーバーさんが配置されていて、私達を見守る。
思いを乗せた灯籠は束の間の川下りの後、環境面への配慮から回収されるそうだ。

 

投下時刻午前八時十五分に合わせて行われた慰霊祭の後、満々と水をたたえる元安川を眼下にする原爆ドーム。
原爆の子の像、この周りには全国から寄せられた無数の折り鶴が吊るされている。世界中の人が花を手向ける。祈りのかたちは自由。

 

 

 

台湾萬歳
2017/07/15

<台湾萬歳/酒井充子監督(ドキュメンタリー映画/2017.7.22公開)>

 
2017年4月末、ドキュメンタリー映画「台湾萬歳/酒井充子監督/2017」が完成した。監督にとって台湾三部作の第三作は、台湾東海岸、北回帰線より南に位置する漁港、台東縣成功鎮(鎮は町)が舞台の中心だ。ありがたくも私は第一作「台湾人生」、第二作「台湾アイデンティティー」でも音楽を担当させて戴き、オリジナル曲を作り、ガットギターを中心に演奏し、それらが挿入曲となった。

私は台湾には行ったことがなかった。ただその頃から、ロケ後出来上がってくる映像に現れる登場人物の声や表情からも、関連した本を読んでも、台湾映画を観ても、ひと味違った近さや懐かしさが伝わって来た。いや、私が近づいたのでもあろう。1945年までの約50年間の日本統治、その後の国民党政権下の38年に渡った世界史上最長の戒厳令、多様な民族間の共存と衝突など、歴史に翻弄されながらも逞しく生きてきた台湾人に、心底寄り添い、足繁く通い、その思い、生活、史実を、ありのままを表現してきた酒井監督の作品において、音楽家のとる立ち位置も監督に倣い、台湾の人達に寄り添う事だった。

 

 
2016年5月末、私はロケ隊に同行し撮影拠点成功鎮へと向かった。初台湾なれど台北をスルーして、東海岸のどこまでも広い海を眺めながら鉄道で台東駅に。駅には台湾側のプロデューサーが迎えに来てくれ、そのまま夕暮れの成功鎮へ。台湾はどこでもWIFIが繋がり、町には日本のコンビニも、ドラッグストアもあり、ここ成功鎮も小さな町なれど不自由はない。成功漁港のすぐ近くの宿を根城に、漁港や海の神が祀られた祠などのロケに着いていったり、映画の登場人物にお会いしたり、散策したり、皆でマンボウの刺身まで食べたり、たぶん一生のうちで一番贅沢な一週間を過ごした。もちろんこれは、三作目に際し、音楽家にも現場の空気を感じて欲しいという監督の意向であり配慮であり、制作会社の尽力も大きい。私も近づき、台湾も近づいてきたが、やはり実際に行けば、その感覚はより自然なものとなった。その最大の理由は、台湾の人達の心にあった。

 

 
2017年6月29日、成功鎮での上映会と、台東縣(特別協賛)台東市での試写会のために、私は二回目の訪台をした。今回は台北から国内線で台東空港へと向かう。「台湾アイデンティティー」でも紹介された火焼島(現:緑島)も眼下に、台湾東海岸南部の美しさに心安まり、彼等との再会に心躍る。その夜は、映画とは別の台日交流の宴にお邪魔し思わぬ出会いも。翌朝、台東市で自治体、マスコミ向けの試写会が行われ、出演者、制作スタッフが勢揃いした。映画は出演者が主に日本語を話し、台湾語、アミ語、ブヌン語などが一部で使われているので、台湾華語のテロップが入る。好評を得て安堵、上映後、台東縣主催の昼食会では出演者の皆さんとお話しする機会も得た。太陽が真上にあると雲はこう映る、と初めての景色を楽しみながら、昼のうちに成功鎮に向かう。街道を太平洋側に右折すれば海と町が同時に目に飛び込んでくる。私はまだ二回目なのに帰って来たような気分になった。その晩、そして翌日のなんと上映会の前に行われた懇親会でも、人々の繋がりがもたらす、我々を迎え入れてくれる大きな優しさに包まれた。

 

 

 

 
そしていよいよ、監督とスタッフが切に願ってきた、一般公開初日を撮影地成功鎮で迎える時がきた。7月1日夕方、国立成功商業水産職業学校の体育館には500人もの老若男女が集まり、この地始まって以来の大イベントとなったらしい。気温30度を優に超える、もちろん体育館だからエアコンも無い状態での上映会は、様々なトラブルなども予想されるが、現地と日本側スタッフの懸命な準備によって、無事に終えることができた。監督、カメラマン、録音マンは十数回も漁船に乗り、漆黒の山に入り狩りを収録し、成功漁港や町中でも人々の生活や歴史を取材し、その労苦は計り知れなく、この日この場での上映は、訪台二回目の私でも感慨深い。

 

 

 

 

 

 
どこでも笑顔の挨拶が交わされる。客人を大事にする。人が困っていたら自ら奔走し人脈も駆使する。これら台湾人の優しさ、誠実さ、人間らしさは、日本人が忘れてしまったもの、もっと言えば、捨ててしまったもののようにも思える。敗戦まで、台湾の人達も日本人もみんな努力して共存していた。日本統治下での差別や不公平もあろう中、市民生活は営まれた。それが1945年のあの日を機に、日本人は各港から船に乗って日本に帰らなくてはならなくなった。成功鎮の港から出る船にも、大勢の台湾人が弁当などを持って日本人を見送ったという。

普通の生活をしていた市民が、国籍を理由に引き裂かれた。

私は、読んで知っていたつもりになっていた72年前の理不尽な出来事を、この地に来て、今の自分達に置き換えてしまうほどタイムスリップしていた。その晩は床に就くも、もう涙が止まらなくなった。

カムシャ(感謝)というとても良いサウンドの言葉を覚えた。 了

 

 

 
♪酒井監督は、この三部作とは別に、台湾人建築家を追った「空を拓く-建築家・郭茂林という男/2013」も撮っている。

 

 

音は色、色は光 1
2017/05/30

作曲納品を終えて、卓上スタジオの装置を点検。納品前はOSやソフトをアップデートしないし、ハード類も正常に鳴っているうちは万が一の不具合にならぬよう弄らない。<I/O・オーディオインターフェイス>という物がある。デジタルで保存されている音をアナログに変換する役目をする機械(その逆も)。スマホ、ノートパソコンにも超小型のそれが搭載されていて私達は実際の音として聴くことができる。デジタル化されたデータを如何に良いアナログ音に戻すかはこのI/Oの性能に関わっている。デジタルオーディオの心臓であるこの部分に、私は13〜4年前から同じ機器を使い続けている。昭和のオーディオアンプと同じほどの大きさがある。荒っぽさも残る太い音。LP、磁気テープ、そしてライブで鍛えられた耳には合うようだ。OSのバージョンアップはもちろん別のPCで実験してからだが、でもやはり怖々と最新にして、しかしI/OをPCに認識させるドライバソフトは最新のものでは動作しなかったので、OS最新版には公式非対応とある少し古いバージョンにしたら、なんと鳴った。特に海外製品は、古い型番やそのユーザの切り捨てが非情なまでだが、やってみるとこうして作動することもある。OSへのダメージも懸念されたがどうやら大丈夫そうだ。そして巷の民生機器では聴けない太く暖かい音になった。買ったことはないが価値ある骨董品を見つけたり、こちらは良くある廃物利用に成功した気分現代版だ。

 
一つ満足を得ると次の事が気になる。I/Oからミキサーに繋ぐオーディオケーブル、長さがちょうど良かったので10年ぐらい経つ物を使っていた。OFC無酸素銅ケーブルの時代になって電導部分の劣化は遅くなったとは言え、10年はもう古い。3m/1,000円以下でも買える時代だが、少しだけ良い物に換えると、失われた時を取り戻したかのような滑らかで張りのある音になった。いや本当はもっと下品に「ああ今まで損した…」と思ったのである。

ミキサーと、I/O、CD、LPなどをそれぞれ繋ぐケーブルを新しい物に交換し終えて、PCの中に入れてある音楽ファイルとCDとの音質差を久しぶりに比べてみた。CDを1としたらPC側は0.22ぐらいのサイズに圧縮してあるファイル、CDの四分の一弱、情報として、スマホに入れて持ち出し用としてであれば十分な音質を保てるサイズだ。そしてもはやこの音質に耳慣れているから恐い。

PC内の圧縮された音楽ファイルを聴く。配線周りを新調したせいもあって感触は悪くない。しかしCDと比べてみるとそれは明らかに違った。CDは更に艶やかに、豊に、バランスも良い。密度の濃い音つまり良い音を聴いたときは、心穏やかに、興奮し、景色は広がる。日常眠っているものが覚醒され、新しい物が与えられる。普段はデータを軽くするためにこれらを捨てているのだ。(LPの音質に関してはここでは横に置く)

写真も手軽に均一に扱えるようになり、その恩恵に与った生活をしているが、紙焼き写真を知ってしまった幸か不幸か、心揺さぶられる迄には至らない。

現代の私達は、切り取られ、圧縮された情報を見聞きし感情を抱く。その振幅の足り無さと、間引きされた荒さは、日々の言葉遣い、態度、仕種にも影響してはいないか。

 

募金箱/JCV世界の子どもにワクチンを日本委員会へ
2017/02/22

2016年分募金ご報告です。皆さまのお志に感謝申し上げます。
JCV世界の子どもにワクチンを日本委員会

廣木光一 SOLO GUITAR LIVE TOUR
2015/03/14

2015年ソロギターツアーは皆さまのお蔭を持ちまして37ヶ所を走破。
11.8にはその締めくくりとなるライブを下北沢・レディジェーンで行います。

お越しを心よりお待ち申し上げます。

 

廣木光一Solo Tour Schedule Part 1

2.4 (水) 吉良・インテルサット


廣木光一Solo Tour Schedule Part 2

5.21 (木) 名古屋・スターアイズ

5.22 (金) 和歌山・OLDTIME

5.23 (土) 岡山・音楽空間 ORiON

5.24 (日) [昼です] 美星町・夜星屋

5.25 (月) 広島・Comin

 

廣木光一Solo Tour Schedule Part 3

5.30 (土) 栗原・12Doors(トゥエルブドアーズ)
guest: MIKA vo

5.31 (日) 水沢・Half Note

6.1 (月) 宮古・カントリーズ Cafe

6.2 (火) 陸前高田・ジョニー

 

廣木光一Solo Tour Schedule Part 4

6.18 (木) 山口・ポルシェ / 0839 24 4616
2nd : 中原豊(中原中也記念館館長) 原昭彦g +

6.19 (金) 日田・パトリア日田
♪ソロギターと朗読が織りなす中也の世界
ギター:廣木光一g
朗読:中原豊(中原中也記念館館長)、樋口友治(演出家)

6.20 (土) 飯塚・ジャラン
1st set : 廣木光一 SOLO GUITAR
2nd set : With 梅野正俊p Smith Iizuka_g 江利陽海perc

6.21 (日) [昼です] 嘉麻・Jam Jill Sweets

6.21 (日) 佐賀・MUSIC INN くーぷらん / 0952 24 5701
guest: 岩佐尚美vo

6.24 (水) 熊本・ハートムーン

6.25 (木) 天草・ばってん

6.26 (金) 鹿児島・明日の地図

6.27 (土) 木城町・木城えほんの郷

6.28 (日) 大分・Naima
1st set : 廣木光一 SOLO GUITAR
2nd set : With “Naima Special Band” 高尾栄市ts 奥川文夫b 志賀翔太ds

 

廣木光一Solo Tour Schedule Part 5

9.12 (土) 花巻市東和町・釜石線土沢駅前佐々木賢一邸<ケンちゃんを囲む会>
♪あと2年で50周年を迎えるところだったクインは大槌町にあった
マスター・ケンちゃんは今でも岩手ジャズの精神的支柱

9.13 (日) 長井・WARM STONE 響蔵
guest: 横澤徹as

 

廣木光一Solo Tour Schedule Part 6

9.24 (木) 十和田・ハミングバードⅡ

9.25 (金) 弘前・Jazz Room UNION

9.27 (日) いわき・SHANTI HOUSE

9.28 (月) 郡山・ザ ラスト ワルツ

9.29 (火) 仙台・カーボ / 022 261 3792

 

廣木光一Solo Tour Schedule Part 7

10.17 (土) 津・Heart ぽっぽ / 090 8470 2458
★廣木光一 Solo Acoustic Guitar

10.18 (日) 倉敷・Cafe & Gallery Penny Lane / 086 421 3987
★廣木光一 Solo Acoustic Guitar
guest: 藤原弘達(g)

10.20 (火) 尾道・尾道公会堂 / 0848 38 9194
★廣木光一 Solo Acoustic Guitar

10.21 (水) 高松・jazz&bar So Nice / 087 873 2117
★廣木光一 Solo Acoustic Guitar

10.22 (木) 高知・木馬 / 088 822 3955
★廣木光一 Solo Acoustic Guitar

10/23 (金) 高知・ビストロ シェ カド / 088 871 1695
★廣木光一 Solo Acoustic Guitar

10.24 (土) 福山・Livebar&cafe Kamitex / 0849 82 9582
★廣木光一 Solo Acoustic Guitar


10.25 (日) 広島・Lush Life / 082 241 7740
清水末寿(ts) 廣木光一(g) デュオ

10.27 (火) 呉・CAFÉ BLEU / 090 2177 7598
★廣木光一 Solo Acoustic Guitar

10.28 (水) 大阪 中崎町・創徳庵 / 080 1476 1934
田中智子(vo) 廣木光一(g) ソロ&ソロ&デュオ

 

2015年FINAL

11.8 (日) 下北沢・レディジェーン / 03 3412 3947
19:00 open, 19:30 start /¥3000/予約¥2500 (各+order)
155-0032 東京都世田谷区代沢5-31-14

 

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2015年、久しぶりに一人旅に出ます。身軽にフットワーク良くいろんな処でいろんな方に聴いて戴く為にです。

アルバムはオリジナル作品集ですが、ライブの演目は到着してから選曲しようと思います。

いつも開演前のサウンドチェック時は、その会場の歴史や人々の関わりがひしひしと伝わって来ます。ミュージシャンは皆敏感にそれを感じています。

今回このイラストは私の気持ちを後押ししてくれました。岡山の吉原理子さんの作品。 お陰で40歳は若く見えます。

良く行く町も、初めて伺う処もとても楽しみです。その際はお声掛け下さいますよう。

『músicas (ムジカス) / 廣木光一』 Promotional  Video on YouTube (6:30)

 

朝倉さやさん
2014/12/11


 

2014年は年初からアルバム制作や映像に音を付ける仕事に恵まれ、自分のガラクタ箱をひっくり返す日々が続いた。音楽を聴くこともなく、SNSからも遠ざかり、スタジオとコンピュータの前にずっといる生活だった。作業が一息着き晩秋にさしかかった頃、ラジオ(朝は良く聞くのです)から元気な歌声が聴こえてきた。物を作り終えて空っぽになった私の一番深いところに一瞬で入ってきたその声。

朝倉さやさん、歌手、山形県出身、22歳。ご紹介するまでもなく、小学生の頃から民謡日本一、ダウンロード販売などでトップになったり、既に大活躍、幅広い人気を得ている。

 

圧倒的な声、そしてまーっすぐ。

 

民謡という長い息を要し、節回しも難しく、表情も豊かな世界で培った技術は極めて高い。山形弁で往年のポップスをカバーしたユニークなアルバム『方言革命』。冒頭の♪タッチ、「こっから」「そっと」など”小さい「っ」”いわゆる促音の発音がしっかりとした腹筋に支えられ、語尾が一番気持ちいいポイントに着地する。「こぉっから」と母音を二回発音したり、「そーっと」など舌で息を止めるのとは違う。促音を長めに保つには腹筋の活躍以外に方法は無く、これにより強力なドライブ感が生まれる。日本語をグルーブさせる証拠がここにある。

その歌唱力は過去をも飲み込んでしまった。かつて時代の頂にあった歌手達の特徴も当たり前のように掴んでいる。それを彷彿とさせる個所も見え隠れし、世代を超えた共感を呼びいつのまにかファンになる。それは決して作為的でなく、彼女自身が表現の一部として楽しんでいるようだ。ロックビートの中でも民謡の小節(こぶし)が見えない程度に使われる。一芸を極めた人が自由になるとこうなるのだなと。

なんと美しい山形弁。彼女は東京言葉とを曲や場面により使い分けるが、東京言葉においても時折ビミョーに濁音混じりに発音する。「ち」→「ぢ」。。ひらがなでは表記できない音も含め、これがなんとも魅力的であり、そのノイズ成分がリズムを興味深くさせる。

 

リズム心地よく、明るく前向き、懐かしく今どき、雄大で身近、そして一点の澱みなく。

 

彼女が20歳の時のオリジナル作品♪東京が歌詞も含めホントに素晴らしい。その山形弁バージョンはもっと良い。剛速球と多彩な変化球を持つ朝倉さやさんのこれからが楽しみだ。(♪さばの味噌煮も良いよ!)

 

 

 

CDリリースします<ムジカス/廣木光一>
2014/10/11

7年ぶりのアルバムです。全曲オリジナルという企画は1990年のファーストアルバム『ラブ・ウィル・アウト』以来。

JOJOさん(高柳昌行)は我々ミュージシャンがアルバムを作るのはそのアリバイみたいなものだからと言っていました。分かっていてもその機を見出すのは簡単ではありません。

今回初めて作詞をした二曲もあります。青木カナさんは日本語もポルトガル語(レオ・ノゲイラさん作詞)も見事に歌ってくれました。

Zukkinho少年がカナさんと歌う童謡『そとであそぼ』もお楽しみに。彼が小二の時に描いたこの”ひまわり”はアルバムの方向性をも示唆しているかのようでした。

飯田雅春acb さんとヤヒロトモヒロperc さんとはけっこう長い間ユニットを組んでいます。それを母体に,渋谷毅p さんにも数曲加わって戴きました。珍しい渋谷さんのエレクトリックピアノによる曲もあります。

発売は2014.10.26

どうぞお聴き下さいますよう。

 

 

 

追悼 藤村保夫氏・新宿ピットイン音響部長【日本のジャズミュージシャンを育てた音響オペレータ】
2014/03/11

1970年代後半、私がピットインに出入りするようになった頃、四つ年上の藤村さんは既にスタッフとして働いていた。日々ミュージシャンの音を生で感じ、そのままの音の再現に徹してきた。足繁くステージとコントロールルームを往復し、ミュージシャンがどういう音を出しているか自分の耳で確かめた。膝をつき楽器やアンプに耳を近づけ、ミュージシャン一人一人の特徴を掴み要望を聞いた。何度でも全員が納得いくまで。中には大きな音の人もいれば、合奏が難しいくらいに小さい音の楽器もあり、また同じ楽器でもサウンドは十人十色。そこを絶妙なバランス感覚をもってステージ内の音量音色を作り上げた。「モニタの音量はどうですか?」という優しい問いかけの中に、<あなた達のここを聴いているよ><このくらいが調度良いよ>という教えがあったことに気がついたのはそんなに久しいことではない。このことがミュージシャンにどれだけの安心を与えてくれただろうか。先ずはこうして”ミュージシャンが演奏しやすい環境作り”を行い、バンドの音が落ち着いてきた頃、会場の音作りに移る。できあがればステージから一番遠いカウンター辺りまで、透明で音痩せしていないサウンドが会場を支配していることが分かる。

 
そのサウンドは美しい。

 
ミュージシャンが持ち込むマイク、ピックアップ、アンプやその真空管やスピーカーまで細部に興味を示した。その知識は豊富で、それぞれの機器の特徴や他の物との比較も話してくれた。カタログで知っていたり受け売りで語るのではない、それを使うとどうなるのかを実際に聴いてきた。その記憶の蓄積。藤村さんに「それ良いですよね。」と言ってもらった時は安心した。

 
ピットインは地下一階、ビルの構造上地下にはエレベータがない。楽器の搬入出はミュージシャンには正直言って億劫なところ。ピットインのスタッフは目を利かせ総出で運んでくれる。藤村さんはオペレーションで耳を研ぎ澄ませ疲れもピークにあろう中、ミュージシャンが搬出にかかろうとした瞬間、先陣を切って楽器を手に搬出を始める。あ、大丈夫です……と言う頃には階段を上がり、若いスタッフが後に続く。ミュージシャンへのリスペクトであり、音楽や店に対する愛情であり、<次も期待してるよ!>というエールであった。

♪2014.3.9@PITINN photo by Aratani Ryoichi

 

2014年3月9日、私はピットインで、峰厚介、大口純一郎、藤井信雄、トオイダイスケ四氏と共にライブを終えメンバーで小一時間の打ち上げを行っていた。たまに藤村さんがお休みの日に当たることもあり、今日はその日なのか……、あぁ聴いて欲しかったなぁ、と思っていた。

 
その翌朝の訃報だった。

 
伊勢丹近くの店舗時代、その向かいの地下店舗時代、そして現在の新宿2丁目のピットインと三店舗に渡り、内外数え切れないミュージシャンやバンドのサウンドをコントロールしてきた藤村さん。ミュージシャンの我が儘を全て受け入れ、演奏しやすい環境に整え、客席に最高の状態でサウンドを提供した。聴衆にもミュージシャンにも愛されるピットインのサウンドを作り上げたのは藤村さんに他ならない。
 
もう聴くことも聴いてもらうこともできない。ジャズ界は宝を失った。 合掌