あのころ<リー・オスカー&良次郎バンドライブ>
江古田駅南口はとても狭く放置自転車でいっぱいなので車で行かない方がいい、という事前連絡をスタッフからもらっていたので、初めて赤帽を頼んでみた。家から一番近い赤帽さんは幸運にも経験豊富、完璧な抜け道を知り、協力的で極めて安価だった。赤帽は助手席に乗せてもらえる。アンプ一式とギターを荷台に載せ、幌の隙間からギターが落ちはしないかと少し気にしながら、この道20年の赤帽のおじさんに運送業界のいろんなことを聞きながら走った。軽トラック一台で始められる赤帽にはこの時勢転職してくる人が多いらしく、中には道も知らない、荷物もろくに運ばない、幌を低くして荷台を小さくし車の台数を稼ぐなど質(たち)の悪い新参者もいるとか。話し込んで江古田に着く直前に右折と左折を間違えて隣の桜台駅に向かってしまったおじさんはすっかり消沈、他よりはるかに安い料金から更にまけてくれようとした。
再会
着いたらタクシーから大きなバッグをいくつも降ろしている外国人がいた。リー・オスカーだ。去年(2001/6)ピットインで渋谷毅p.さんとデュエットをやっているときに飛び入りジョインして以来だ。挨拶は「君誰だっけ ・ ・ ・?」から始まる。終始ジョークを忘れない。言葉が通じたら今の100倍は仕掛けてくるに違いない。すでに大出がいた。私たちはアマチュアの頃からの仲でもう27〜8年になる。90年初頭のHIROKI-BAND、廣木トリオを共にした上村は、亡くなった川端さんの代わりをつとめる大役だ。私を世に出してくれた古澤さん、遅れてきた天才(ピアノは速いが来るのは遅い)大口さん、労苦を共にした感が強い佐山、そしていろんな意味で私はこの人の後を歩いているような気がする峰さんの順でやってきた。十余年ぶりの再会の挨拶を交わし、まずはプロデューサーによる今日のラインナップ(曲順)の原案をもらってリハーサルは始まった。すごくよく覚えている曲、忘れてしまった曲、曲は覚えていても感じを忘れてしまった曲。いろんなことが起きたリハは三時間を越えてしまった。普通なら疲れ果ててしまうはずだが、このバンドには必ず良い演奏ができるという自信と、しなければという意識が自然とある。それはリーと古澤さんという繋がりが軸になっていることは言うまでもないが、加えてプロデューサー川村さんと、コーディネーター池上さんの存在が大きな後押し支えになっている。つまりミュージシャンは音楽のことだけ考えていればいい環境を与えられる。その恵まれた環境にこのメンバーであれば否が応でもテンションは高まる。
二つの不安
今回の話は5月上旬に持ち上がった。川村さんから電話をもらったその時は、いつも通りポジティブに返答した。しかし本当は、私の頭の中に不安が二つあった。
一つは自分の問題。活動25年ほど経って自分自身をゆっくり考えるために、今年は演奏活動を休んでいるからだ。演奏してしまうことで(また特にこんな濃いバンドであればなおさら)今自分の中で行われているちっぽけではあるが25年間の総括と修正が中途半端になってしまう心配があった。演奏で答えを出していくのがミュージシャンであり、その方法で答えを出すのはベストでありミュージシャンにとって簡単なことではあるが、今はそこを離れて出る答えに出会ってみたいという、ある意味では悠長な今の私なのだ。しかしその時は、同志の再会のような貴重なオファーに最初は自分の都合なんて言えなかった。
二つ目は、十余年前にほぼ解散という形になったバンドの再演に関してだ。運良く残った当時の録音をリー自身がリミックスするという熱のこもった状態で発売されたCDをお聞き戴ければそこにあるように、それは一つのバンド、音楽のピークだった。そして古澤さんと共に世界一のリズム隊を組んだ川端さんのもはやの不在。そのことをハッキリと記憶しているだけに二番煎じにならなきゃ良いな ・ ・ ・と小生なりの危惧を持った。
こんな訳で今回はお断りしようかとギリギリまで悩んだ。そのせいでみんなに迷惑もかけた。
シチュエーション
Buddyで良かった。ライブハウスとしては六本木ピットインと並んで東京では大きい方の店。そこに200人を越えるお客さんが来てくれた。楽屋の椅子を持ち出しても足らずに立ち見が出るほどだった。お客さんには悪いが、やる側にとっては立ち見が出るというのはうれしいことこの上ない。私が気がついただけでも遠く京都、山形、更に札幌から来てくれた人がいた。20年前にこのバンドを聴いた小学生が30歳のお母さんとなって来場した。さながら同窓会のようでもあり、そんな出会いを包み込んでくれる余裕と何かがここにはあった。
名解説と演奏
開演冒頭池上さんが司会をするその中で、このバンドの成り立ち、日本の音楽界及び世界においての位置付け、その価値、このバンドを取り囲む人たちについて、そして故川端民生さんのことを話した。20年(いや古澤さんと川村さんの出会いから含めれば30年を優に超える)の歴史を10分間にまとめたものだが、この解説があったことでお客さんに伝わる意味は格段と深まった。何より我々ミュージシャン自身もいろんな事を思い出させてもらった。準備は整った。
演奏は池上さんが一人一人を呼び上げる中、古澤さんのドラムスから音が出た。その瞬間から一気に安心感が走り、全員が加わった頃には一つのバンド・サウンドが出来上がっていた。 ・ ・ ・でも、これ以上演奏についてミュージシャンが言葉で書くより、専門の池上さんにお任せしよう。ここで言えるのは、安心して演奏を始められたこと。そしてみんな素晴らしかった。90分一本勝負の予定が2時間半を越えた。ワンステージの時間としては私の過去最高。それを持ってその熱狂ぶりをお察し戴きたい。
不安の解消
ミュージシャンにとって演奏以上の解決方法はない。こればかりは取って代わるものは無く、演奏すれば良くも悪くも結論が出る。「そんなら演奏してればいいじゃん」と言いながらだらだらとやってきた結果、取りこぼした物もいくつかあるようなので、今年を自らの句読点とした。今回も楽しかったが気を付けなくては ・ ・ ・、私は調子に乗りやすいから。
リユニオンに対する懸念も、そこは即興演奏家の集まりで、今の音が出た。リーの変わらないやり方に対し、日本側はジャズやさまざまな音楽を素材とした自由奔放変幻自在の音楽で太刀打ちする。リズムのグルーヴを保ちつつ新しい音楽として生まれ、上村の健闘も含め、二番煎じは避けられた。また今回初めて聴く人が多く、場内は新鮮さが充満した。このようにお客さんにも助けられ、事は私の杞憂に終わった。
ガラスの野獣
リーが変わらないと言うのは、一貫したスタイルを持っているという点についてであって、細部は少しずつ変わってきている。架け橋となった古澤さんを差し置いて、近年は私が一番リーとの接点が多かった。若手をフィーチャーした98年のリー&NEXT PAGE(大出g. 松尾敦史ds. 羽生一子ds. 上村b. 津上研太sax と私)や、99年のリーと大出&私のアコースティック ・ギター・トリオもあった。リーはブルース・ハープというワンモードしか吹けない味わい深くも不自由な楽器を何とか多彩に聴かせようと、会うたびに少しずつ新しい音使いを披露した。そこには感性の広がりと共に技術の大きな進歩もあったと思う。繊細なニュアンス、音色だけではなく、新しいメロディの創造に対しても果敢に挑戦していたのだ。20年前のリーは足を大きく踏みならし、何が何でも相手が誰でもナニジンでも自分がバンドを引っ張り、そしてリー・ワールドを構築するんだという演奏だった。私たちは尊敬と愛着をこめつつも「野獣」と呼ぶしかなかった。しかし、十代後半で母国デンマークからアメリカに渡り、更に、被差別により差別が激しくなってしまった黒人社会で勝ち残るためには、そのくらいでなくてはだめだったのだ。我々は時間をかけ、彼の音楽を理解し要望に応えられるよう努力し、またリーも歩み寄り、コラボレートしてきた。今は足音はだいぶ静かになったが、やはり強力な牽引力を発揮しつつ、ガラス細工のように微妙なコントロールを聴かせてくれる。
あのころ
演奏してみればやはり、それはそれはスケールの大きさ、パワー、ユニークさをとっても他に類を見ないバンドであることは間違いなかった。当時、なぜこのバンドはあのまま世界に出て行かなかったんだろう。リー・オスカーという大きな星と、ドラマーとしても作曲家としても優れた古澤さんのコンビは最強のものであったはずだ。もちろん当時の私の演奏は稚拙で足を引っ張っていたに違いないが、しかし私のことなんかともかく、もったいないことこの上ない。何が足りなかったんだろう。別に誰を責める訳じゃないけど、今更ながらにそう思ってしまうバンドだった。「♪あのころ」を演奏しながらよぎることが昔と違ってきた。(2002/8/10)
copyright(c)Hiroki Koichi,2002