今回は特に個人的なことを書くことをお許し戴きたい。
私は父親とは生き別れなので、親といえば病気がちの母親だけである。恥ずかしい話だが、末弟が母のそばに居てくれるので全国を飛び回って演奏活動を続けていられる。母と私はちょうど20歳違い、まだ61歳なので多少の猶予がありそうだと楽観していたところに、全く別のところから突然「老後・介護」の二文字がなだれ込んできた。予測より遥かに早く巡ってきた人間の宿命。今このことに直面し私の中でいろいろなことが大きく変わってきている。
親代わり
私は幼児期に両親と暮らしていなかったので、母方の祖父祖母伯父叔母がみんなして可愛がってくれた。姫路に居た3つ上の初孫は別 にして、関東では私が初孫のようなものだったからだ。とりわけ母方兄弟次男の故「C」は、虚弱で食も細かった私を親身に育ててくれた。そして教育、物質面 でサポートしてくれたのがCの兄、母方長男の「A」である。今回はこのAが主人公だ。
大正14年生まれのAは、二つの大学の造船、経済、仏文学科を渡り歩いた変わり者だったが、卒業や中退をした後、日本教育テレビ(現テレビ朝日)に入社しテレビマンとして活躍した。当時はしりのモーニングショーなどで、演出のひとつとしてテレビカメラやスタジオセットを映してしまい、局側の批判を浴びたことなど、幼いながらも私は影響を受けた。私とはあまり縁も関心もなかった父親を後目に、「音楽はいい音で聴かなくては」といってステレオを買ってくれたり、音楽を始めると言えばピアノまで買ってくれたりしたのだ。義理の親子のようでもあり、音楽家になってからの私とはライバルのようでもあり、適度に距離をおいたありがたくも面白い関係だった。
離婚
3年前、36歳年下の妻と共に私の近くに越してきた。老後の不安を感じていることはすぐに分った。12年前にこの女性と結婚したときは、親戚 中に安堵の声が響いた。しかし去年、70歳と34歳になるこの夫婦は離婚した。原因は双方共にの鬱病により共同生活ができなくなったからだ。女は東北の実家に帰り、伯父Aは一人になった。多忙で情も薄い私は会いにも行かず、ある日偶然駅で出会った。それは精彩もなくよちよち歩きの浦島太郎状態であった。あぁ、人生男には女だ、女は男だとこのとき痛感した。しかしその約1ヶ月後、にわかに復活した。1時間半もかけて自力で我々のコンサート会場まで来た。昔ながらに髪をハデに染めて。演奏終了後未明までみんなで楽しく呑んで家まで送った。元気な姿はこれが最後だった。
97年大晦日、私は演奏家生活21年目にして初めて東京ではなく北海道で年越しをした。そして帰京後はすぐにいつもの忙しい生活に戻っていった。大晦日のコンサートを毎年楽しみにしていたAにとっては、離婚の寂しさを癒すひとつのチャンスを失った。私はこの時点でのケアーをしなかったことを反省する。
倒れる
98年1月24日深夜、Aと連絡がつかないという知らせが小樽にいる私の携帯電話に入る。葛飾区に住んでいる私の弟に頼んで見に行ってもらう。誰一人鍵を預かっていなかったので中に入ることができない。かすかな声で返答がある。しかし意味不明のことを言って開けようともしないので、鬱状態で人に会いたくないのだろうといつも通りの状況判断をした。私も3日後帰京して訪ねようと楽観していた。しかしさすがに12年間同居した女には何かが伝わったのか、彼女は東北の実家からかつて世話になったきわめて良心的な2軒の不動産屋に電話をかけ、開けてもらった。そこには何日も倒れたままで脱水症状、死一歩手前のAの姿があった。緊急入院。鬱病どころではなく、多発性脳梗塞だった。私は羽田から病院へ直行し、一命はとりとめたものの孤独と闘って弱りきったAと再会した。このときから私と痴呆老人とのつき合いが始まった。
転院
何回かの検査の結果、幸い脳に原因する大きな運動障害はないことが判った。もちろん半身不随でもない。でも歩けないし、手も満足に動かない、当然おむつ使用の寝たきり老人。老人医療について用意がある病院だったのでその面 では安心していたのだが、都合の悪いことが起きてきた。精神分裂による妄想が始まったのだ。脳梗塞と精神障害の二重苦。しかしこのX病院には精神科は無い。スタッフに多くの迷惑をかけてしまった。誠意あるケースワーカーの計らいで、精神科のあるY病院への転院が決まった。ますます長期戦への様相を呈してきた。
苦渋の選択
生きるのか、ずっと病院暮らしなのか、私と同居するのか、特別養護老人ホームへ入るのか、いろんなことが頭の中を渦巻く中、とりあえず現時点で必要なくなったアパートや金融関係その他の処理をしなくてはいけなくなった。幸い借金もなく、高額年金受給者だったのでお金のことは苦労しないで済んだ。大変だったのは、2Kのアパートによくもこれだけのというくらい押し込められていた71年間の人生を物語る生活の品々の処理である。私が生まれた頃から使っているゴミ箱をはじめ、見覚えがあるものもいくつかあった。仮荷物置き場として借りた倉庫には大きなものは入らない。ドクターにもほとんど回復の見込みがないように説明を受けていた私は、ほとんどの物を処分する決心をした。2日間延べ20人の友人たちの手を借り、使える物は手伝ってくれた人たちに譲渡し、古本屋にも来てもらい、また今日誰も使いそうになくても本人にとっては思い出深しき物を苦渋の選択で捨てたりした。
市の巨大なゴミ処理場へ初めていった。可燃と不燃の二別のみ。10mも下の巨大なゴミ穴に不燃物を投げ捨てる。私も投げ入れるが吸い込まれていきそうだ。私が今まで行った場所で一番怖かった。この世の果てのようなところだ。指に軽いけがをした私に係員がバンドエイドを差し出してくれた。働いているのは優しい人間だったのが唯一の救いだ。
まるまる3日かかって荷物を貸倉庫にコンパクトにしまうところまでたどり着いた。それはさながら遺品の整理のようだった。でもまだ生きているのだ。
復活
私は月によっては10日から半月ツアーに出ているのであまり見舞いに行けない。だから次に行ったときに病状が大きく変化していることが多い。
Y病院へ転院して2週間後の3月のある日、ツアーから帰って私は見舞いに行き驚いた。そこには目を大きく開けすっきりした笑顔のAの姿があった。精神科医の見事な治療によりごく微量の投薬で、分裂による妄想、鬱の症状が無くなっていた。そして自分が妄想に犯されていたことも冷静に回顧している。みかんの皮まで食べようとした痴呆老人が以前とほぼ同じに話せるようになったのだ。更には、リハビリの効果だとあの動かなかった手足を少しづつ自慢げに動かしてみせる。あのとき発見されなければこの人は死んでいたかもしれないし、脳梗塞も再発して死んでしまったかもしれない。いかに迅速で適切な治療こそが大切かを思い知らされた。
4月某日、今度は自分の力だけで立ち上がる姿を見せてくれた。4ヶ月の寝たきり生活が終わった。しかしこれで社会復帰できるわけではない。精神病は薬によって安定しているわけだし、脳梗塞もいつ再発するかはわからない。天涯孤独な男の最後の人生が始まった。私もどうケアーしていけばいいのか複雑だ。
4ヶ月家を離れて快復してきて当然気になるところは自分の身の回りの物事だ。あれはどうなっている?あれはどこにある?が少しづつ始まった。廃人段階で多くの物を処分してしまった私にとっては恐れていた問題が起きてきた。でももう私はこう言うしかない、「あなたは一度死んだんですよ」。つづく。
98/5/13
copyright(c)Hiroki Koichi,1997
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