介護2
東京と千葉の県境をはしる江戸川の、千葉県側の川沿いに私のアパートはある。土手のちょうど私の家の前のところには「13.5Km」と書いた標識が立っている。おそらく河口付近からの距離だろうか。500m上流には「14.0Km」の標識。そのすぐ前にあるアパートで、一人の老人の最後の青春が始まった。脳梗塞で倒れ一時は医者にも見放され、病院を転々とするか特別養護老人ホームに入居するしかないといわれた我が伯父「A」の復活劇だ。
医者の力
98年4月の時点で寝たきりの生活が終わったAは目を見張る快復を見せた。歩ける、手もほぼ動く、しゃべれる、食べられる、判断できる。Y病院の担当精神科医の診断と投薬は的中した。介護(1)で登場した病名及び症状もほとんどが該当しないことが分かった。そもそも70歳ぐらいになると多くの人が脳梗塞になる可能性があるらしい 。Aの場合、生活環境の変化や多少の鬱から生きる意欲が低下したことも無いとはいえないが、倒れた一番の原因は多発性脳梗塞。そして、我々を心配のどん底におとしいれたあの妄想は、脳梗塞と共に現れることのある症状とのこと。X病院では精神分裂とまで言われたのに。
Y病院での投薬は頭の中をスッキリさせる薬だった。妄想はどこかへ消え、ここ近年 でもっともクリアーな表情、効果てきめん、私も飲みたいくらいだ。程度の軽かった鬱病もすっかり顔を潜めた。ここまでくると当然社会復帰の可能性が出てくる。本人も、退院そして新生活スタート の夢が日々膨らんでいく。
本人の力
頭がクリアになってからの快復は早かった。早く病院から抜け出したい、やり残した仕事をやってしまいたいという気持ちがリハビリにも熱を注ぐ。6月に入ると同室患者と共に2時間もの散歩をした。小走りもできるようになった。記憶力テストでは30問中29問正解し、ドクターに優秀のお墨付きをもらって子供のように喜び自信もつけた。
されど脳梗塞。両手の薬指小指に力が入らない。少し痛いので薬も塗っている。血圧も高くなる日があり要注意だ。ストレスと水分不足が一番いけない。しかしこういう人に限って味が濃いのが好きだったり、水を飲むのも忘れてカレーを食べたりする。 私はAの身辺整理をする役割から生活をサポートする役割に変わることになった。
森の部屋
入院患者は通例として3ヶ月をもって次の病院に移ることが一般化している。それ以上いてもらっても病院側が儲からない仕組みになっているのか。Y病院もその例外ではなかったが、退院を前提に入院延長が許された。家探しが急務だ。
生活指導員(?)である私のうちから2〜3分以内に住むというのがドクターの出した条件だった。私はツアーの真っ最中なので自分では探せなかった。事情を分かっている不動産屋に更によく事情を話して探してもらった。10日間ほどで見つかった家は、鬱蒼とした森を思わせる庭の奥にある静かなアパート。騒々しい私のうちから500mのところにこんな世界があるとは知らなかった。紹介者、大家、運命全てに感謝したくなる格好のすみかである。社会復帰することなど考えられていなかった男は、ほとんどの家財を処分されていたので、新居のセッティングは簡単だった。部屋も広く使えそうだ。私は必要な物の買い物も楽しむことができた。
ドクターの二つ目の条件は、病院からの外泊、つまり生活にゆっくり慣れていくための一時退院を二回無事に務めたら、晴れて退院のハンコを押してくれるということだった。
新生活
本人、部屋はおおいに気に入り、私も胸を撫で下ろした。しかし人間、生活して行くためにはいかにたくさんの物品に囲まれているかを実感した。一食作るにも、お茶を飲むにも、洗濯を干すにもあらゆる場面で〈あれがないこれがない〉。捨てるときはあんなに惜しげもなくできたのに。
いっきに退院させない理由のひとつに〈退院鬱〉というのがあるらしい。プライバシーもほとんど持てない集団生活の病院から、干渉されないが孤独な我が家へ戻ったときになる鬱。会社員等の昇進鬱というのもあるという。解る気がする。外泊の結果、重大な影響とまでは行かないが血圧が上がった。何が原因かを常に考えていかなければならない。とにかく血が濃くなりすぎないように水分摂取だ。
生還
退院は、私のレコーディングの次の日の朝だったが、意外に疲れも吹き飛び爽快だった。積もる話と買い物をしながらAは新居に〈帰宅〉した。
ドクターは謙遜の意味も含めて、患者本人の力による奇跡的快復だという。私も終始見てきたがそう思う。発見されたタイミング。X病院でのケースワーカーの好判断。Y病院での適切な治療。生死をさまよっていたときの発見者でもある不動産屋が世話してくれた新居。Aの運と生命力の強さを感じずにはいられない。
そしてこの7ヶ月間ずっと感じてきたこととして、〈医者〉と一言では言えないということ、医者の言葉をうのみにしないこと、専門家の中の専門家に診てもらわなくてはだめだということ。一度は寝たきり老人の烙印を押されたのだから。
こんなことを乗り越えてきたAは何か強い物を持っているのだと思ったりもするが、 顔を見ていると、「図々しいからだよ」と言ってしまう。 98/07/23
copyright(c)Hiroki Koichi,1997