ライブとレコーディング
ライブとレコーディングは明らかに違う。ライブは繰り返しや強調することで聞き手に対して印象を深めていく効果 が生じてくる。居場所としてどうしてもライブの時間の方が多いのでかなりこのことが癖になっている。片やレコーディングの時は如何に簡潔に、そしてすばやく展開していくかが望まれる、凝縮されていく世界だ。
古き良き時代のアメリカの小唄、つまりスタンダードジャズの名演を聞いて良く出会うことだが、一つのメロディに対して同じアイディア、コード等は二度使わない。演奏者がそれをできない場合はアレンジャーが付く。これはまさに3分間ミュージックの中に自分達の全てを注ぎ、何がなんでも聞き手を飽きさせないための当然の手段だ。
今回レコーディングを通して私も私なりに演奏の贅肉を落とすことをできたが、普段の自分のくどさと単調さも身にしみた。
タンゴとジャズ
タンゴとジャズをテーマに2枚のCDを作ってみて、またツアーでそれを弾き続けてみて感じたことがあった。双方とも私にとってドライブ・発展させていくのに最高のリズムであり、その中にはいろんな可能性、そしてまた差異もある。
先ずジャズにはベリースローからアップテンポまで速度に無限の可能性がある。一方タンゴはこと速度に関してはジャズほどの幅はなく、楽団によって僅差はあるがほとんどが歩くような踊るような2ビートである、タンゴのスピード変化はそのフレージングにある。そして双方とも、最初に始まった速度を基準に、奏者の〈うたい方〉やその状況によって生じてくる互いのリズムの〈引っ張り合い・ゆれ〉が更なるエネルギーを生み、それがグルーブになっていく。
そしてタンゴの場合、「タンゴ」という大きなリズムの柱がドーンと真ん中にあって、それを目指したり利用したりしてテンションを楽しめる。いい意味で基本線が一元的だ。
ところがジャズはタンゴに比べてそのバリエーションの豊富さからきわめて多元的になり、基本ビートに対する求心力ばかりではなく、自らそのテリトリーを拡大して行くかのように次のアイディア、ビートが見えかくれする。ソロ演奏の際、あるテンポを単独で持続しているのが時々空しくなる。新しいなにかが欲しくなったり、誰かに反応して欲しく思える瞬間がある。これはもちろん私自身不徳の致すところも大きいのだが、場面 を大きく変えたり、また相手が欲しくなることの多い音楽だ。即興演奏音楽としての歴史の差か、超多民族国家と熱情ラテン民族の土壌の違いか。
音楽全般に渡って言えることでもあるが、良い言い方をすれば、ジャズはみんなで演奏した方がより楽しい。ツアーの途中で各地元のミュージシャンたちと、また市川に帰ってワークショップのメンバーたちと演奏すると、合いの手があることがこんなにも楽しくありがたいことかと思い知る。
でも私はソロを続ける。私なりの理由がある。
ソロ・ギターの演奏
私は94年7月からソロギターの活動を始めた。
75年頃から自己のグループやあらゆるバンドで演奏してきたわけだが、常に人と一緒に演奏してきた。そこにはメンバーとコミュニケートする楽しさと難しさが同居するが、全てのことを自分一人でやらなくてもすむ、それぞれ持ち味を生かし協力しあって構築していく世界である。この状態の中でずっと過ごしてきた結果 、つくづく自分は「自分にとって都合のいい部分」でしか音楽をしてこなかったと思った。できないこと知らないことだらけなのだ。
解りやすく例を挙げれば、イントロ、エンディングはピアノまかせ、リズムはドラム、ベースに当たり前のようにキープしてもらい、メロディでさえ管楽器に吹いてもらったりして、美味しいところだけ摘んでいたわけだ。もちろん複数メンバーのバンド内で個性的に役割を果 たして行くことは大事だし大変なことだが、そこをきちんとするためにも今は、自分自身のギター奏法の可能性を追求する必要を感じた。ソロ楽器としての伝統あるギターの奏者として、また即興演奏をするものとして、リズムとサウンドを終始自力で何にも寄りかからずキープしていたいという願望からだ。
そこに足りないものを補いながら
ソロという演奏状態は極めて孤独だ。音楽が成立する要素すべてを自分でまかない、そして全責任もそこにある。 強 ・弱、大 ・小、多 ・少、高 ・低、緩 ・急、濃 ・淡、厚 ・薄、硬 ・軟、荒 ・細、広 ・狭、鋭 ・鈍、暖 ・寒、美 ・醜、そして点と線と面 、持続と停止、繰り返しと不規則性、距離感と逸脱、立体感へと他にも数え上げたらきりがなく存在する生活の色彩 、味わいを、楽器一本で瞬間瞬間そこに足りないものを補いながらお客と戦う。それでも雰囲気がどこかに偏るとお客の緊張感はとぎれ、飽きる。
どこかに偏ってしまっている状態というのは自分自身にアイディアが無く苦しんでいる瞬間、それを見抜かれるのだ。しかし演奏中に考えていたら間に合わない、直感でいく。そのためにふだん技術とセンスを養う。
平たく言えば演奏というのは、かゆいところに手が届くように、物事を常識で判断し、そしてはっきり音を出せばいいのだ。けして奇人変人たちの特殊な行為ではなく、健全なそれなのだ。エキセントリックと言われた名プレーヤーたちの表情をビデオで見るチャンスも多くなったが、皆、良識ある無邪気で健康ないい顔をしている。上記の相対の羅列も、この常人の当たり前の行為の中に感じられる要素でしかない。
ジャズのこれからについて
リズム・ニュアンスは変わる
ジャズは、フレージングが時とともに洗練されていくこと、そして強烈なビートが持続していくことがその価値と魅力とされてきた。
八分音符の表情のつけ方も非常に重要だ。八分音符の前後の長さの比率、音量差、音質、次の音へ移るカーブ(声で言う母音のカーブ)、これらの要素が曲の中で相対的に変化して演奏される。そしてそれは楽器の特性、テンポ、曲調、その音楽のスタイル(年代)、他共演楽器との関係によっても変わる。
八分音符はスイング時代からモダン時代を転機に前後の長さの比率差が小さくなった、基本ビートが跳ねなくなったのだ。かつての古い乗りは蔑視され、モダンジャズでは八分音符は均等に近く、偶数拍(八分音符で数えた場合)にアクセントがある状態が好しとされていった。しかしこれはあくまでも基本であり、効果 的に跳ねたビートを用いることもある。
日本人に言えることは、日本語感覚で普通に演奏すると必ず奇数拍にのみアクセントが付き、アクセントが付いた音は長く聞こえ跳ねたリズムになり、いわゆる「頭乗り」になる。世界中に色々な言語感覚があるが、やはりジャズにおいては英語圏のそれも特にアメリカ黒人米語のレイドバックしたアクセントとカーブが母体となったリズムニュアンスがヒップとされるのは当然だ。
何がこれからのジャズか
しかし、いつまでも一つの「乗り」やテンションが珍重され続けるはずがない、昨日のテンションは今日のテンションではない。いまだに古い形式でスタンダードを4ビートで演奏することに様式美とジャズのイディオムを感じているミュージシャン、リスナーも少なからずいるが、私の価値観から言えば、美しさや雰囲気等というものは音楽の味付け程度のことでしかなく、もともと本質はそんなところにはない。与えられたその演奏の場所で、人間が楽器・声を通 して如何に主張・呼応・存在しているかが問題だ。そもそも雑食であるジャズが自らその領域を広げ、あらゆるものがジャズと呼ばれるようになり、世界中に広まった。
リズムニュアンスからも解放され、何がこれからのジャズか?を考えてみる。
常に変遷するルール
私の結論から言えばそれは「常に変遷するそのルール」にある。
ジャズは最初からその時代ごとに自分達に必要な最低限のルールを作って、その中で腕を競ってきた。そして不必要になったルールを排除し、新しいものが必要とあればそれを取り入れ、洗練と拡大を目標に変遷してきた。演奏中のルール変更もあり得る、リアルタイムに改善される。そしていいフレーズ、アイディア、サウンドを出せば誰でも正当な評価を受けるチャンスが与えられる。
ここに自由競争社会ならではの、ふところの大きいアメリカの精神の良い部分が現れている。ギル・エバンス・オーケストラに象徴される民主主義だ。そして今やあらゆる国の人が色々な「乗り」やアイディアをもってそれぞれのジャズを成立させている。そこには当然アメリカ黒人米語の語感からは遠いものも多くなるだろうが(ジャズの魅力であるスイング感をある程度把握さえすれば)、各人種・民族・個性に咀嚼され再生されて出る「借り物でない素直な自分達のリズム」の方が、様式にこだわりすぎるそれよりリアリティがある。
古き良き時代の遺産に固執している場合でも時代でもない、優れているもの確かなものを見過ごさないニュートラルな価値観を持つことが大切だ。この浄化再生機能まで付いた更新可能なルールを残し、主張・呼応・存在して行くことがこれからのジャズの可能性ではないか。
夢は人に
サラダバーのように自分の好きなアーティストの好きな曲を自由に選曲し、それを店頭ですぐに1枚のCDにデータを書き込みオリジナルチョイス盤を作れる、そんな時代がすぐそこまで来ている。デジタル回線と衛星放送の効果 で「いつでもどこでもなんでもあり」の世界になる。もうテクノロジーに夢はない、夢は人にある。
国、地域の特定性がなくなりつつある今、益々ひとりひとりの自立と主張が重要になってくる。 (96/2)
copyright(c)Hiroki Koichi,1996
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