仮装現実の中の自己完結
リズムのリアリティ
音楽の何にリアリティを感じるか?私の場合、リズムだ。リズムの力強さ、深さ、鋭さ、そしてそれらが互いに激しくからみ合っているか、がプレーヤーのセンスと見識を物語る、その事が私の評価の第一基準となる。
フュージョン、テクノポップが世を席巻してからは、リズムという概念が大きく変わった。「フュージョン」時代はベース、ドラムなどにパターンを作らせ、その上に何をトッピングするか、何を重ねるかという考えで、絵合わせを楽しんだ。このやり方で、それまでに存在したあらゆる〈素材〉がトッピングの材料となった。「テクノ」に至ってはリズム隊をメトロノーム代わりにしてしまった。リズムマシーン、またはリズムマシーン化を目指す奏者は、安定した、また安全な持続を求める人間に対して、永遠にそれを供給し続ける。これに乗って演奏することにより、トッピング奏者は、ちょっとの変化、少しの〈ゆれ〉も表現とする事ができる。大地を自分の足で歩き、腹式呼吸でビートを表現(ピアソラ、モンク、ミンガス、ロリンズなどに象徴されるように)しなくとも、簡単に目立つ事ができる。あたりまえだ、無機の上に有機が乗っているのだから。定規で書いた直線の上に手書きで書いていくように。
摩擦も衝突もない場
さて、今ここでは、既に衰退した音楽の意味あいに対し論じたいのではなく、上記のような傾向が最近の一部のジャズの中に見受けられ、ジャズ本来の魅力に欠けるものがマジョリティとなっている現在について考えてみたい。
巧妙だが淡々としている。機械のように正確で、かつ親切なリズムに乗って、アドリブ奏者はナルシストと化し、独自のビート感、解釈で弾きまくる。互いは干渉を最低限にとどめ、摩擦も衝突もなく、アドリブ奏者はひたすら如何に個性的なトッピングに成りうるかを競い合う。必要悪介在せず。絵合わせのようなジャズ。無理もない、お互いのテリトリーを犯すでもなく、傷つけ合うことも少ない現代人の生活とよく似ている。
本来は、「おまえより俺のタイミングの方が絶妙だ!」と競い合ったり、「あんたにも事情があるんでしょう、私も万全ではないから」と人の弱点を補ってあげたり、つまり音楽の現場とは、弱肉強食と共存共栄が渾然一体となった小社会なのだ。この、否定と肯定が渦巻く中で、コミュニケーションを深め、個々の役割を果 たしながら作業を積み上げ、その切磋琢磨の中から確かなサウンドが生まれる。
仮想現実の世界
私も多少パソコンをいじる。無、そして既存のものからあらゆるものに自由に変化させることができる。現実にはあり得ないことも具現化、また体験できる。人間が持つ無数の欲望に、無数のコンピュータソフトがそれに答え、モニタ画面 の中の仮想現実の世界へ我々を運んでくれる。構造を理解し、操作に精通してくれば、指一本で机上における夢が実現する。コンピュータのおかげで私の事務面も、限りなく迅速化され、拡大された。
しかし、この現代人の必需品に今、これだけ世話になりながらも思うことは、私の場合、「30歳を過ぎてからの出会いで良かった」と言うことだ。
10代の終わりから20代は、楽器のトレーニングと、バンドの中に入ってのコミュニケーションという二つの作業で精いっぱいだった。もし、10代や、もっと幼いころからこの魔法の箱の恩恵にあずかり、その発想のもとに人生を歩んできたとしたら、私の性格からすると、前記の地道な二つの作業はせず、頭の中での自己完結に終始していただろう。
関わり合いがエネルギーを生む
この仮想現実の中での自己完結が恐い。
演奏の魅力の一つはあくまでも、人間同士の関わり合いからくる引力と反引力が、更なる大きなエネルギーを生むことだ。他人の考え方も尊重し、自己主張もし、他人のビートも肌で受けとめ、自分のビートも相手に投げつける、これらを共有させるにはものすごいエネルギーを必要とし、ストレスも伴う。しかし上手くいったときはこの上ない感激だし、またその快感を忘れられないが為に、みんな音楽をやめられないのだ。
このような感動を伴った名演になかなか遭えなくなった。価値観があまりにも多様化したせいか、みんなそれぞれ自分にちょうど良い土俵を持っていて、その中に於いては、昔よりは遥かに進化した奏者が、はみ出さないように自分のため、信者の為の歌を展開する。
かつての、アルゼンチンタンゴの骨を抜いたコンチネンタルタンゴ、BGM化したジャズの無味乾燥無意味さ、など、短絡的に大衆化や商業主義化していった類ならまだしも、私が懸念するのは、現役の洗練されたメロディラインを持つ一線のプレーヤー達の間に見られる、《リズムが絡み合わない》この傾向である。
リズムが全てを物語る
私の意見としては、サウンド、メロディ、リズムの中の符割りの部分、エフェクトは洗練、進化したのは明らかだが、リズム、ビートの深さ、強烈さの面 では退化したのではないかと思う。たくましくも、ふてぶてしくもない。もっと分厚い音で、互いに影響し合いながら、主張し合う生き残りゲームで良いはず。ビートは本来、共演者、聴衆、空間に一拍一拍突き刺さって行くはず。大勢が本質に逆行するのはいつの時代も同じか。
音楽に必要な大半の素養は、ある程度は時間と共に身について行く。しかしリズムだけは、修行に匹敵する訓練を積まないとなかなか改善されない。訛り、癖、性格の弱点などを治すのが難しいように。
しかし、我々ミュージシャンがその真価を問われるのは、実はここなのだ。
「リズムが全てを物語る」とたたき込まれて、今は亡き師匠のもと、私は育ってきた。
今まさに、それを実践し、伝えていく時が来たと自負する。 (95/6/23)
copyright(c)Hiroki Koichi,1995