演奏心得

 一つの都市にライブハウスがあり理解のあるマスターが居れば、そこは必ずその町の音楽シーンの拠点となる。そんな大切なライブハウスも最近少しづつ姿を消している。営業方針を変え飯屋、飲み屋に衣替えするところもある。残念だがこの不況の中、音楽より生活が遥か先を一人歩きしている。世紀末を体験する今、演奏家として何を心掛けるか、初心に戻って考えてみる。
ジャズがつまらない?
 元気の良い演奏が減ってきていることもジャズシーン衰退の大きな原因だ。CDよりテンションが低いのであれば、聞くときの時間と空間を自由に選べ、内容も保証されたCDを取る。たかが知れているのであれば、手近な方を人は取る。だから生演奏は特別に刺激的でカッコよくなければならない。聴衆としての私だって、外タレ(国外有名ミュージシャン)が来ても、よほどのマエストロでない限り半ステージ(2部制の1ステージの事ではない、1ステージの半分)もたない、飽きてしまう。それだけ聴衆も耳が肥え贅沢になった。また多様化し乱発される中、良いライブに出会うのも難しい。音楽が生まれるところ、肌で感じら音楽が生まれるところ、肌で感じられるところとしてのライブの灯を絶やさぬため、ミュージシャンはどう在るべきか。
ビートは生命力の化身
 自分のベスト(100点)だった演奏に向け、無意識(その人の本質)のうちに記憶を辿り再現にはしる。これは芸術作業として視ると、全くクリエイティブな事ではない。演奏の出来不出来以前に、いつもとは違う方向を示唆したり、可能性を探ってみたり、冒険したりすること、これぞ真の音楽ファンが聞きたがっていることだ。派手な表現とサウンドと技術をもって聴衆を煙に巻き、やっていることと言ったら自分達のベストテイクのコピーだったりする。これではお客は二度目からは来ない。ミュージシャンは自分の今まで使っていなかった脳のある部分が赤くなるくらい(CTスキャン?)、つまり未体験ゾーンに入っても演奏をコントロールするその時のために、技術と表現力を磨いているはずだ。横這い延命のためではない。ビートというのは、規則だってリズムを配給する事でもなく、演奏家同士が確認し合うための目印でもなく、ただひたすら生命力の化身だ。その結果 、ミュージシャン同士が認識し合う。
演奏し続ける動機
 表現者にとって大切なことは、才能ではなく「演奏し続ける動機」である。一つの突出した才能を武器にしていても、時代の流れ世の変遷にはいつか追い越される。常に自己啓発し、改め、創造し勝ち抜いていく力が必要だ。才能があればちょっとは楽かなって感じ。演奏していないと人格として死んでしまう、演奏する事によって初めて自己解放できる、もはやそういうミュージシャンには滅多に遭えるものではない。他にも楽しみがいっぱいある時代になった。我を貫き贅をつくし生み出される"永遠"と思えるサウンドを望むことは、今の時代ナンセンスなのであろうか。どうも何事においても、サイズを先に決めてから、それに合うソフトをはめ込んでパッキングしているように思えてならない。コンビニサウンド。
トコロエラバズ
 サイエンティスト、エンジニアの世界では頭脳国外流出が兼ねてから叫ばれている。あたりまえだ、これは年功序列学閥優先の日本社会に限界を感じて、能力優先主義の国へ脱出していくわけだ。音楽の世界でも、日本の土壌に悪因があると思って国外に新天地を求めたり、やたらと外国人を崇拝したりする輩(方々)も居たりするが、私の考えは違う。どこに住んでいようと本人の中にジャズが生まれなかったらメッカに行っても生まれるわけがない。環境に頼るミュージシャンの音楽は弱い。音楽はリアルタイムに環境を作っていけるコミュニケーション・ツールだ。優れた演奏家が本気でいい音を出せば、人は聞いてくれる。特にジャズは普遍性を持ったそのルールと演奏家の熱烈な動機が有れば、場所を選ばず成立する。極東の国の更に地方からでも充分に発信できる。
 社会状況は刻々とそれも良くない方向へ変わって行くが、音楽に必要なことは昔もこれからも変わらない。忘れがちになるだけだ。国や自治体が支援してもいいような価値のあるライブハウスもいくつもあり、主催者も何人もいる。その気慨に答えるべく我々は、元気にリアルに演奏していくのだ。(97/11/20)

copyright(c)Hiroki Koichi,1997

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