私の生い立ちから

「タンゴ・インプロビサード」ライナーノーツより
1956年8月17日
 1956年8月17日未明、台風で停電する中、私は産声をあげた。川崎市生田の駅から歩いて30分ほどの山奥の集落には、農家が16軒と、祖父が新聞記者をしていた我が家の、計17軒しかなかった。野山と小川とたんぼに囲まれた、戦後11年目の農村。
 タケノコ、椎茸、しめじ、梅、桃、梨、柿、いちじく、ざくろ、ニッキ、山椒、数え上げたらきりがない四季の恵み。枝じゅうに白いあの綿のような花をまとう、こぶしの大樹。がけの上からは、山百合の麗姿が我々を威嚇するかのように見下ろす。梅、紅梅、そめいよしの、八重桜へと、春のリレー。同じ紫でもその風合いを異にする、れんげ、あじさい、てっせん、桔梗。ウサギ、ニワトリ、チャボ、高麗キジ、孔雀も居た。そんな大自然の中を、子供たちは裸足でかけまわり(私は臆病だったから靴を履いていた)、クワガタ取り、ザリガニ、鮒釣り、刈り入れの済んだたんぼで野球、神社で缶けりに明け暮れた。
祖父の家
 相撲の場所が始まると、大勢の近所の人がのら仕事を終え、風呂も入らずに泥だらけのまま、寛容な祖父のもとへテレビ観戦にやってくる。同居している伯父がテレビ局勤めだったことや、音楽芸能一般が好きな祖父の趣味も相まって、早くから、SONI (現SONY)の真空管式テープレコーダやステレオなどが有った、私はそれをいじるのが大好きだった。祖父は、私が手を出したがるのをいなしながら、マーチから長唄、クラシック、ジャズなどを幅広くエアチェックし、聞かせてくれた。私は、ヴィレッジ・ゲートのハービー・マンというLPがお気に入りだった。
 この自然とソフト&ハードに恵まれた環境は幸せだった。そして幸か不幸か、別居していた両親の代わりに、私を育てることになった祖父母、伯父叔母らに受けた影響も大きかった。特に祖父の気質、人生観は私の最も根源的なところに生き続けている。祖父・廣木新平は、新潟の片田舎の、ゆくゆくは県会議員にまでなった庄屋の息子として生まれた。しかし、当時この辺にはおかしな習わしがあって、結婚する前に一緒に住んでみて、相性が合わなければ解消も許されていた。案の定、新平が生まれてから、母子は追い出された。さらには、その後母は、息子を捨てて再婚してしまった。喰うや喰わずの生活に耐えかねて、ある冬の日、ボロ着をまとった少年が、実の父親に助けを求めてお屋敷の門を叩いた。が、しかし、非情にも「そんな薄汚いガキは知らぬ」と門前払いを喰らった。この時、失意と屈辱の中、幼心にも全てを悟り、又、自立を余儀なくされた新平少年は、納豆売り、新聞配達などをしながら、苦学し、やがて警視庁詰めの新聞記者として活躍し、子宝にも恵まれた。
「廣木」になる
 駅から村までの30分の道のりに、痴漢が多発した頃があった。新聞社を定年退職し次の会社に移った祖父は、近所の女学生を毎朝引率して仕事に出かけ、帰りは駅でみんな揃うのを待って、楽しく語らいながら帰宅した。空手の有段者だったこともあって、他にも武勇伝あり逸話ありの人生だった。私は、生まれてたった6年間のつきあいでしかないが、この力強く、心の広い祖父を尊敬し、誇りに思っていた。廣木新平は母方の祖父なので私は最初廣木姓ではなかったが、小さいころから渇望し、祖父没後12年目、18才の時に、私を溺愛してくれた祖母の養子に成ることで、廣木になった。この年から私の人生は大きく変わった。ギターを始めたのもこの時だった。
師と出会う
 アイデンティティと表現する道具を同時に手に入れた私は、引っ越しもした。祖母と二人で都心に暮らし始めた。そして、バンドを組んで、楽器店の店頭などで演奏しているころ、師匠高柳昌行に出会った。私が18から35才の17年間、自宅に通わせてもらい、練習方法、勉強方法、物事の考え方、その表と裏、音楽の歴史の重要さ、そして一番大事なリズムのことを、その人格からは想像できない駄洒落と共に話してくれた。私が道に迷わないで済んだ17年間だった。師匠もジャズ同様、タンゴが好きだった。サンバ、ボサノバはもともと大好きだった私だが、ある時、「ヒロキはラテンは好きか?」と聞かれ、即答し、師匠も参加していたタンゴバンドに参加するようになった。この時、ラテンという幅のある言葉を選んだことは、後になってよく解る。それは、ラテン音楽に共通して流れる血、激しさについての問いだった。温厚なだけでは決してタンゴはできない、激しさと危機迫るものがないとアルゼンチンタンゴにはならぬ 、そしてそれはジャズにしても同じだと。その資質と覚悟を問われたのだった。
根源的なリズム
 私たちはよく、リズムを刻むことを、「リズムをきる」と言うが、師匠は、「きれば血が吹き出すタンゴのリズム」と、その生命力、スピード、激しさ、深さを、愛着を込めて表した。
 私にとっても、タンゴのリズムは、今まさに表現方法そのものである。決して不用意に流れることを許さない、真剣勝負のリズム。小さい頃、祖父と共に、タケノコを掘ったり、球根を植えるときに、細長いシャベルでいかに地中深く突き刺すか、小さい体で挑戦した。何度も繰り返し、旨くいったときは到達する快感があった。この感じがタンゴの一拍一拍と実に良く似ている。野山を駆け回っていたことや、小中学校に30分歩いて通っていたことが、2ビートという、歩いたり、船をこいだりするような、人間にとって一番自然で根源的なリズムに、異国の音楽なれど、すんなり入っていけた理由かもしれない。
 最近、ジャズのリズムで演奏するときも、横に流れすぎないように、縦の振幅をより大事にするようになった。私の中でのジャズのタンゴ化だ。しかし、こんなことは、私に始まった訳ではなく、真の巨匠たち(エリントン、モンク、ギル、ミンガスら)は最初から、タンゴに引けをとらぬスピードと豊かな倍音、そしてこだわりを持って演奏していた。
そして更に
 祖父が実父に門前払いを喰らったときに、「はいわかりました、それならもうけっこうです!」と言ったかどうかはさだかではないが、私はその性格を100%引き継いでいる。また、そのおかげで得も損もしている。そして、全ての価値、突き詰めることを常に実践、体感させてくれたのはJOJO(高柳昌行)さんだ。こんな影響を受けながら生きてきた私の、途中経過報告がこのアルバムだ。そして更に更に圧倒的な音楽を目指す。(95/8/28)

copyright(c)Hiroki Koichi,1995

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