よぎる

〜トルシエの功績〜
 シドニー・オリンピックで勝ち進めなかった日本のサッカーがアジア・カップで優勝した。もちろんメンバーも一部違うし相手もシチュエーションも違うが、明らかに彼らの中で大きな変化が起きていた。
 特にあのドーハの悲劇以来、専門家達にことごとく言われてきた日本の最後の「決定力のなさ」は、専門知識のない一ファンの私も同感であった。今回のオリンピックでもその傾向は随所に現れ、見るからに詰めが甘かった。それは、もうここで決めるというゴール前でチームプレイに徹しバランスを考えているような日本人の姿があった。誰一人前に飛び出して行かない日本社会の縮図を観る。「こんなことしたらまずいんじゃないか」「迷惑をかけるから(誰に?)」「怒られるかも・・・(誰に?)」「目立つから(ホントは目立ちたいくせに)」「やったことないし・・・(だからやるんでしょ!)」「恥ずかしい(じゃやめろ!)」・・・・・。理解力、処理能力を第一に、「出る杭は打たれる教育」を受けてきた日本人が、さまざまなジャンルの中でブレーキをかける。一瞬冒険を試みた政治家も、前例を振り返り、周囲の動向におびえ、先々を憶測しながらの行動によりあっけなく沈没。日本に革命は起こり得ないのか。
 舞台はアジア・カップに移り、日本サッカーは私達を魅了した。強躯な高原、センス抜群の西澤を始め全員が成長を遂げ、そして優勝というおまけもくれた。決定力が出てきた。では何がそうさせたのか。一番大きな変化は、選手各自が自分で最終判断をするようになったことだと思う。ゴールは崖っぷちでの一瞬のひらめき、アドリブと同じである。そのとき頭の中でよぎったことを自分の判断で迷わず実行する。そこにはなんの因襲も十字架も背負わず、自分の意志、責任でシュートする姿(世界では当たり前)があり、結果 多くの得点を生んだ。
 ?パーソナリティの確立?
 ここが変わったことによりもともと優秀な選手達の能力が最大限に発揮されるようになった。これがトルシエ監督最大の功績ではないか(トルシエに言わせればまだまだだろうが)。
〜権利は義務〜
 我々演奏家も演奏中にいろいろなことが頭の中をよぎる。実はこの「最初によぎったこと」が一番良くて新鮮、そして正しかったりする。例えばレコーディングをしていて、強欲な我々ミュージシャンは更に更に良い演奏をとテイクを重ねても、よくあることだが結局テイク1が一番良かったりする。ライブ・レコーディングがミスが多くても流れの良さとパワーを感じる要因はそこにある。感じたことをすぐに音に出したい気持ちは誰にでもあるが、技術や経験(前例としての)に乏しいためにやり過ごしたり諦めてしまうのは実にもったいない。日本人の「無くても良い不安」で、自らのだいじなアイディアを葬り去ってはいないか。ひらめきこそ宝なのだ。クリエイティブな世界においてこの不安は、謙虚さ、奥ゆかしさという仮面 をかぶった迷惑であり損失である。つまり、せっかくのアイディアを具現できなかった本人にとっての損失であり、それを共演者がフォローし、聴衆の期待を裏切るという迷惑なのだ。ではやり過ごしてしまったことを技術・経験などのせいにして良いのだろうか。確かに技術や経験に余裕があればあるほど自由度は増す。しかし新鮮さを感じさせるひらめきと言うものは奏者のレベルに関係なく存在するものだとも思う。音楽とは不思議なもので、演奏者(歌手、管楽器、弦楽器、打楽器なんでも)が次の音を出す前に息を吸っただけでも、また何かしようとアイディアがよぎっただけでも伝わってくるものだ。だから良い音楽は安心して聴いていられるし、自然に流れていく。そしてそれは必ずしも聴く側は音だけを聴いているのではなく、気配や人の意識の変化を総合的に感じていることでもある。やる側と聴く側が思ったことをリアルタイムに共有したり交換したり(聴衆の反応もミュージシャンに大きく影響し、エネルギーももらっている)できる「音楽」の素晴らしさを考えると、演奏者が躊躇することは犯罪に等しい。演奏者はキャリアに関わらずそこに存在しその人の音を出せる権利と出さなくてはならぬ 義務がある。実は演奏の場においてこの権利は義務でもあったりする。
 要は直感的プレーも大事にするよう自分のプログラミングを変えていくことだ。初心者を指導しているときも、彼ら彼女らが何かを思っただけで私は嬉しくなる。そこに音が無くても意志と意識がみえるからだ。よぎったときにその場で迷わず表現しようとする気持ちが、新しい技術を必要としそれを開発させる。そしてそれはその人の方法論の骨組みにもなっていく。ただし、よぎるのは誰でもよぎる、よぎったことをやろうとしないとだめだ。入らなくてもいいからシュートを打て! (2000/11/25)

copyright(c)Hiroki Koichi,2000

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