「音という光」音楽塾コンサート28thコンサートに寄せて
2013/09/17

音という光

2011年3月11日以降、電車や車に乗っても、地下道を歩いても、海水浴に行くのも、ライブハウスにいても、もしかしたらと思ってしまう四方八方を不安要素で囲まれた時代に生きている。なんと飛行機に乗っているときに一番安全を感じたりする。多くの人の辛苦を目の当たりにし、自分の幸福さと呑気さを思い知った。以前とは比較にならないほど時間が気になり、遅まきながら作業の整理と効率化を図った。向上心はむしろ若い頃より増しても、哀しいかな将来という感覚はあまり無くなっていた。そんなとき2020年東京開催が決定されたことで、このところ日本に無かったプラスの思考が漂い始めた。闇の中彷徨い続け、遠くに光が見えた今、音楽家のあり方を考えれば……。

古の剣豪は山に籠もり孤独に耐え己を鍛え上げた人も多かったという。そこにあった目標というものは自己を磨くということ以外に何もない、見返りを求めない自己鍛錬。故に庶民から”本物のお侍様”と崇められた。我らバンドマンとしてはこの時代、こういう生き方に興味を持つ。セロニアス モンクは後輩にミュージシャンとしてのプロモーション方法を尋ねられた時に「打算無用、常時ステージでの良いパフォーマンスあるのみ。」(筆者要約)と答えたという。プロミュージシャンはありがたくも聴衆という対象に向けて演奏することができる。他者、社会に向け音を出すことが仕事でもある。しかし本当は、研鑽と準備を重ねつつも、ライブ、コンサートという場はあくまでもその褒美なのであろう。

他方アマチュアミュージシャンは、向上心を持ち充実感を求めつつも、あくまでも自分の楽しみとして音楽に取り組み、その結果周囲との共有や和を生む。こう考えるとプロより遙かに原点に近く、時代性も備えている。

今日も楽器やマイクを持ち唯々音に集中する。そして私達のフィールドは音があるところに光が差す。

 

 

「ありがとう!古澤さん」  廣木光一
2011/09/26

♪若い頃

 

昭和20年9月に仙台で生まれ、そこは占領下。『仙台はね、軍隊が強かったからアメリカ軍がだいぶ後までいてさ、だからギブミーチョコレートって言ってけっこうもらったんだよ。』子供心にもなにか口惜しい思いをしながら、歯を食いしばって育ったに違いない。幼少期から外国との接点があった古澤さん。高校時代にラジオで流れた<トリス・ジャズゲーム>を聴いてのめり込んだ。18歳まで仙台、あとはずっと西荻。

 

◆果てぬ好奇心

『なんで?』——おなじみの語尾が上がる仙台訛りのイントネーションは、語韻の特徴だけでは無く、古澤さんの果てしない好奇心の現れだ。『なぜあなたはそう思ったのか』と問われる。曖昧な返事はできない。一つ答えてもまたその理由について『だからなんで?』と聞かれる。古澤さんと話すには用意と気力体力が要る。そのやりとりがずっと続く、『俺、帰る…』って言うまで。

演奏においては、こちらがどんな稚拙なフレーズを弾いていようと、寛容な応えが返ってくる。そこには次のフレーズを弾かせてくれる、次の言葉を喋らせてくれるヒントと愛がある。

 

◆世界一のレゲエ

1970年代後期、この頃のジャズバンドはコルトレーンの影響を受けた小さなリフを起点に、大きく長尺に展開するやり方が主流だった。そのころ古澤さんは、スイングやアフリカをルーツとしたリズムだけではなく、中南米を始め世界中に興味が広がっていた。その一つがレゲエだった。レゲエには独特のバウンド感、浮遊感がある。古澤さんはレゲエの中に更に大きくユニークな空間を見つけ、そこにみんなをいざなった。バンドにギターが必要になり大出元信氏(故人)が抜擢され、カルテットあらため古澤良治郎クインテットがスタートした。古澤さんは町で偶然見かけた大出に『俺のバンドで弾かない?!』と音も聴かずに誘った。これは二人とも凄い。しかしスタートして間もなく大出とのスケジュールが合わなくなり退団、近くに居た私が入団した。ジャズをやろうと思っていた若いギタリストは、このレゲエの”ン・チャ・ン・チャ”っていうリズムを刻むのが最初はどうも恥ずかしかった。しかし古澤さんの狙いは遙か先にあり、ハイハットとギター&キーボード、キックとベースなどが組み合わさったときの音色効果や、そのパワーをイメージしていた。

良治郎バンドになってからは常に2キーボード、2ギター(3ギターの時もあった)。同じ楽器(特にリズム隊)が複数の時はアイディアやセンスが求められる。プレーが重複しないよう、役割が分担されるよう、周囲を見渡す訓練が続いた。ドラムを叩く古澤さんから大音量の中、よく聞こえるなという声で『切れ!』と指示が飛んだ。そういうとき気がつけば、不規則でタイトではないバッキングをしていた。古澤さんの要求は、この編成の場合少なくとも一人ずつのピアニストとギタリストがリズムを切るということ。元よりの色彩感覚と、楽器の音色の組合せを網羅するクラシックを経験してきたことも大きい。こうして誰も表現したことの無い音色と空間を演奏することに成功した。それがあの広大で豊か、そして暖かな古澤さんのレゲエだ。

 

◆二人のベーシスト

古澤さんは活動当初から、グズラさん(望月英明氏)とバタさん(故・川端民生氏)という二人の優れたベーシストに恵まれた。ベースというポジションに対し不安を抱いたことが無いという。なんと幸せなドラマー人生だと思うが、古澤さんだからこそ得られたのだ。『グズラとバタがさ…』と話す口調には自信と幸せが溢れていた。古澤カルテット、クインテット時代のグズラさんのウッドベース。子供のように無邪気に思いつくまま叩く古澤さんを、これぞ根底からしっかり支えるシンプルな低音。さぞ古澤さんは自由で安心だっただろう。良治郎バンドになってからはバタさんのエレキベース。8人から10人のメンバーを支える屋台骨の構築には、それまでにはないチャレンジと緊張感があった。ドラムとベースが織りなすリズムパターンは、古澤さんの曲を、ひいては一つの音楽を完成させる礎となった。

このころ、周囲の期待と責任の大きさに苦悩する古澤さんの姿を見ることがあった。大きなスケールと才能を持ち合わせる者の宿命。またその後、年下のバタさんが早くに亡くなったことで、古澤さんの心と人生に大きな穴が空いてしまった。

 

♪これも若い

 

◆大群の将

今思えば、良治郎バンドになってからはこの言葉がピッタリだった。古澤さんは2小節(数え方によっては4小節に相当する)のフィルインを叩ける(もちろんもっと長くても)。例えば、スネアの連打だけでも表情を変えながら、遠くの次の景色が見えるところまでみんなを連れて行くことができる。次にどう展開したいか、どういう方向に行きたいかというメッセージそのものだ。ここぞという場面で叩かれる息の長いハッキリとしたフィルインは、さながら幾千幾万の大群を号令一下進軍させるような一大スペクタルに観える。

よく弟子達に『必ずフィルして入ってこい!』と言っていた。”いきなり叩き始めるな、一拍目からなんの予告もなく曲に入ってくるな”という教え。これはどんな楽器にでも同じ事が言えるが、ドラムは音楽に与える影響力の大きさから”次を予測して、思い切りよくかつ慎重に”との意。

古澤ミュージック結実の証、アルバム<たまには(1983年)>の”Peak Wind”の中で、通常は4拍目に一発スネアを叩くであろうはずのところで、あえて叩いていない個所がある。このセンスには鳥肌が立つ。抜く美学はあるべきものが揃いうる上で成立する。そう来るだろうというところでの裏切りという色気。

 

◆作曲家・古澤良治郎

古澤さんの曲を音楽の教科書に載せて欲しい、メディアや街角でもっと流れて欲しいと思うのは、私だけではないだろう。散歩中にも作曲する古澤さん。日常の小さな変化も逃さず感じ取り、楽器がそこに無くともあっという間に曲にしてしまう。そうしてできた曲は、誰もが親しみ口ずさんでいる。万人が自然に歌えるのは、メロディが日本語でできているからだ。古澤さんはクラシックを学び(ピアノもかなり上手い)、ジャズに心酔し、様々なリズムを探求した。西荻に居ながら世界を何周もするぐらい研究し、若くして原点に回帰した。その発想は極めて日本的、日本語人らしい。世界中の音楽、リズムを咀嚼した人間が、母国語で、日常を表現した最も自然体な作風。何一つ借り物ではない深奥からのメッセージは世界にも伝わった。バンドメンバーと演奏するときをイメージしたり、家族や友人に聴かせてあげよう、捧げようと思ったり、常にその対象を想い、動機を持ち続けた。これは好奇心と愛に他ならない。聞こえる、『あいだよ、愛!』

その作品一つひとつに対し、綿密に考えられた、もしくは同時に生み出されたリズムパターンが、曲の足下を支える。自作自演は音楽の中で最も説得力を持ち、強いとされる。そんななか古澤さんはドラマーという、バンドメンバーを鼓舞し引き出す役割にいた。自分自身ではメロディを弾くわけでもないし歌わない(うたっているように見えるけど)、和音も弾かない状態で、自分の音楽をあそこまで具現化するには、相当の周到さと慎重さがあったと思えてならない。メロディとリズムのアイディア、つまり幹と土台を古澤さんが持って来る。あとはメンバーが自由に個性を活かすことによってカラフルに発展する。共演者の潜在能力を喚起する才能も秀逸だ。ジャズバンドにはライブの前に30分ぐらいの、音合わせのような、リハーサルのような時間がある。本番での即興性に重きをおくため、練習時にはさほどガチガチにしない。そこに古澤さんが新曲を持って来たときにはもうアレンジができ上がっている。

 

◆無上の連鎖

リズムパターンという言葉を何度も使ってきたが、ホントは古澤さんには相応しくない。1ないし2小節の繰り返す形をリズムパターンと称するが、古澤さんの場合、その中でも一つとして同じ音は叩かない。自らが開発したリズムを叩きながらも、一音一音確かめ一歩一歩踏みしめながら前に進む。パターン化されていない。そこには音楽の最もだいじな要素の一つ”音符のニュアンス”がある。叩くもの、音色、音量、スピードといった音楽的選択は当たり前のこと、なにを思って叩いているかという最も大事なことが一打一音を形成する。今ここに何が必要か、自分はどうするか、みんなはどう思っているか、ここを叩いたらどうなるのか……。あれこれ熟考した上でのドラミング。楽しみながらも神経を使ったであろう。即興演奏の場では、良いフレーズが良いバッキングを呼び、また良いフレーズを呼ぶ。より考え抜かれた、洗練された、新鮮なフレーズの連鎖。この結果生み出されたものが良いリズムとなって躍動感を生む。フレーズやアイディアが途切れるときはリズムもダウン、下手をしたら停まってしまう。最初からリズムというものが独立してあるのではなく、質の高い会話の継続の産物がそれだ。古澤さんの一曲ごとに対する豊かなイメージと平明さの下、耳を研ぎ澄ませ、視覚、そして古澤さんにしかない勘も全開で、一拍一拍進む、無上の連鎖。そうしてできあがったのが古澤さんのリズム。

 

♪古澤さんと私、ラストライブ

 

◆リスペクト

NYに住んでいる友人との会話の中でリスペクトという言葉を良く耳にする。多民族が混在するところでの生活は、先ず互いに尊敬し認め合うことが前提になるという。占領下という抑圧状態で育った古澤さん、理不尽なこともたくさん見てきただろう。戦後復興の中、自分自身が力を付けないと何事も始まらないと全力で生きた。そして音楽に進んだ。東京の音大に入ったが、そこは野球部も含め完全に体育会系だったと。ここでもまた修行の日々が続いた。私は21歳で古澤良治郎クインテットに入団した。ただの小僧である。でも古澤さんは全国どこででもミュージシャン、関係者、お客さん、友達……誰に対してもキチッと紹介してくれた。実力も社会経験も何も無い一介の若造に、自覚を持たせようと対等に扱ってくれた。これが私のリスペクトという概念との最初の出会いだった。そのとき古澤さんは32歳。そんな荒々しくたくましい環境から卒業して10年しか経っていないのに、出会ったときから極めて紳士的で理性的、かつ論理的だった。創造性とはお互いにリスペクトし合うことが前提で成り立つということを教わった。当時の写真に写っている私は、ジャズ界の猛者の中に”もやしっ子”一人。あのころの新人類だったのだろう。気を遣わせちゃったね、古澤さん。古澤バンドに入って最初のライブ終了後に言ってもらったこと。『一番良いフレーズから入ってこい!』

 

◆音楽が強かった

弟子達の間では『なんだって!?』をマネするのが流行った。それは紛れもなく訛っているから楽しいわけだ。古澤さんは18歳で西荻に移り住んで40余年、仙台のリズムを持ち込み、それを失わなかった。フツウ、ところ変われば悩み気も遣い、そこのリズムに感化されみんなと同じ喋り方になる。しかし古澤さんは変わらなかった。古澤さんが不器用なのだとは思わない。持ち前のリズム感、つまり言語感覚が強かったのだ。故に音楽が強かった。どこに行っても、誰と居ても影響されない自分があった。東京という大都会でも人と違う事を恐れなかった。最初は焦ったけど。独特のリズム感で生きていても、意味、中身を理解し合えればなんの問題もないことも知っていた。とにかく言いたいことがたくさんあった。叩きたいことがたくさんあった。メロディをたくさん思いついた。演奏していると楽しくてしかたなかった。人に興味があった。町の変化に敏感だった。タバコ吸いたかった。焼酎呑みたかった。そしていつもみんなと居たかった。

いま古澤さんは間違い無く、みちのく上空にいる。

 

2011年6月18日 (C) hirokimusic

 

♪古澤さんのCDbox発売詳細はこちらから!!

 

A Tribute to the Memory of Mr. Ryojiro Furusawa : HIROKI Koichi [Translaition : Sumi Matsuyama]


 

Mr. Ryojiro Furusawa was born on September 5th, 1944 in Sendai, in the Tohoku region of Japan. After World War II, Japan was occupied by the Allied Powers, led by the United States. Sendai was also under occupation of the United States Army for an extended period of time because there had been a major Japanese military base there. “Give Me Chocolate!” used to be a common phrase for children of those days to pester the soldiers for a chocolate. Mr. Furusawa was one of these children. It must have been a humiliating experience for him. Given the circumstances, he must have gone through various hardships in his boyhood. Meanwhile, he had the good fortune to have contact with foreign cultures. During his high school days, he was crazy about a radio program, “Torys Jazz Game.” He lived in Sendai until he was 18 years old. Afterward, he moved to Nishi-Ogikubo in Tokyo and spent the rest of his life there.

 

Full of Curiosity

 

“Nande?” (Why?) was his favorite word and a way of expressing his endless curiosity. He often said “Nande?” with a Tohoku accent. His “Nande?” had his original intonation. He never accepted an ambiguous reply for it. He always pursued the “reason” up to the hilt. For this reason, it required mental and physical toughness to converse with Mr. Furusawa. He never stopped the discussion until he left. In musical performance, he always made a large-minded and affectionate reaction even when I played an immature phrase. There was a clue for the next phrase and conversation in his reaction.

 

The Greatest Reggae of Mr. Furusawa

 

In the late 1970s, one of the most common types of jazz was under the influence of John Coltran’s style. The feature of Coltrane’s style was to develop music from a small piece of motif. Mr. Furusawa had expanded his interest into Latin America’s rhythms and various rhythms of other ethnic groups as well as swing and other African-oriented rhythms. Above all, “reggae,” which is characterized by its bouncy beat and inflective sound, attracted him. Mr. Furusawa found a large and distinctive space, and the band filled the space successfully. He was looking for a guitarist and the late Mr. Motonobu Oode was selected.

It was at this moment that the “Furusawa Ryojiro Quintet” was launched. It was developed from the former “Furusawa Ryojiro Quartet.” Mr. Furusawa first met Mr. Oode in the street, by accident, and recruited him without an audition, simply saying, “Let’s play together in my band!”  Their relationship began on a great gut feeling between them.  After a while, Mr. Oode seceded from the band, due to scheduling problems, and I joined the band in his place.

At first, as a young new guitarist, I preferred jazz and was embarrassed to play the simple pattern of reggae, “mm-cha, mm-cha”. However, Mr. Furusawa’s futuristic aim was beyond our imagination. He predicted the effect and power of the sound when the guitar and the high-hat or the bass drum and the bass guitar wrapped over it.

Soon, the “Furusawa Ryojiro Quintet” was renamed as the “Ryojiro Band.” There were always two keyboard players and two or three guitar players in the “Ryojiro Band.” Excellent ideas and strong musical skills are required when multiple players on the same instrument play together. This is especially true for the rhythm part. We practiced a lot to avoid overlap in the same instruments and divided each person’s responsibility.

Mr. Furusawa often instructed me saying, “Kire!(chop!)” in a loud voice. Such instruction made me aware that I had been doing unsteady and loose comping. Mr. Furusawa requested that at least one combination of pianist and guitarist should do rhythm comping simultaneously. Generally, classical music put a premium on one’s sense of color and tonal combination. Mr. Furusawa’s experiences in classical music in his early days might have affected his sounds. At last, the “Ryojiro Band” succeeded in performing unprecedented sounds with unequivocal ambiance. The result was broad, rich and warm: Mr. Furusawa’s reggae.

 

Two Bass Players

 

Mr. Furusawa played with two excellent bassists, Guzura San (Mr. Hideaki Mochizuki) and Bata San (Mr. Tamio Kawabata) from the start of his career. He never expressed any anxiety about the bassists. People might be familiar with how happy of a drummer he was; no other drummers could achieve it. He often mentioned the two bassists in a confident and cheerful voice. The contrabass performance of Guzura San at “Furusawa Quartet” and “Furusawa Quintet” was always simple and supported the band from the bottom of the sound. In this way, Mr. Furusawa could play his drum freely without hesitation. In the “Ryojiro Band,” Bata San played electric bass. It was challenging work to build up the foundation of such a large band—8 to 10 players. The rhythms made by the combination of drums and bass played an important role in Mr. Furusawa’s music. However, while “Ryojiro Band” progressed satisfactorily, Mr. Furusawa was in anguish over people’s expectations and his heavy responsibility. Furthermore, the demise of younger Bata San left a gaping hole in his heart.

 


 

The General of a Vast Army

 

Mr. Furusawa in “Ryojiro Band” was like the general of a vast army. He could play relatively longer drum fills that were more than two bars (or four bars). He could play long snare drum rolls until the scene of the music would change by using various ways of expression. His drum fills were fingerposts for the next movement and direction. His long, sustained and clear-cut fills at the most appropriate time were like a word of command which could advance a great number of soldiers. He often told his students, “Start with fills!” He taught that a drummer should not start their play out of the blue. This lesson could apply to all other instruments. He expected his students to play decisively and cautiously while predicting the outcome, as a drummer’s play always has a significant impact on the music. When you listen to the tune “Peak Wind” appearing in the album Tamaniwa (1983), worthy to be called a masterpiece, you will notice that he sometimes omits the snare drum at the 4th beat intentionally. How sophisticated he was! The aesthetic of elliptical expression comes into effect only when the minimum requirements for the music exist. Mr. Furusawa’s performances went beyond the listener’s expectations.

 

Mr. Furusawa As a Composer

 

I hope Japanese music school textbooks adopt the compositions of Mr. Furusawa. Also, many fans expect his music to be extensively disseminated via the media. He used to compose music during his promenade. He could grasp the small variations of day-to-day situations and bring them into his compositions. He could compose a piece of music in no time without playing any instruments. Everyone can hum his compositions easily because all of his tunes are in accordance with the rhythms of the Japanese language.

Mr. Furusawa studied classical music in college (he was also a good pianist). He was fascinated with Jazz and sought to explore various kinds of ethnic music after graduation. Then, he went back to a Japanese-oriented rhythms. The sources of his ideas existed in Japanese elements and language. In other words, he described the everyday things in a very natural way by the taste of the native tongue after digesting all kinds of music and rhythms from across the world. His originial and visceral messages penetrated the minds of people worldwide.

He sometimes composed music while having a vision of the ensemble of his band. Sometimes he dedicated his music to his family or friends. He always had good intentions and motivation, and he always kept curiosity alive and had his heart and soul in mind. He often said simply, “Love! Love!” The rhythmic patterns were either well-designed or improvised case by case. The rhythm section solidified the foundation of his music. He played his own works, which means that his music had strong powers of persuasion. He himself did not play the melody or chords. And while he did not sing a melody, I felt as if he had. He had the ability to concretize his music well despite the fact that he was just hitting drums, which meant he was in a position of inspiring other members rather than playing the melody by himself. I believe his plans were very thoughtful and cautious. Mr. Furusawa offered ideas of melody (backbone) and rhythmic patterns (foundation) of the band, and the other members were encouraged to develop his ideas freely and colorfully while valuing their individuality. He was also good at bringing out a latent faculty. We usually conducted a short rehearsal of about 30 minutes just before going on stage. We roughly checked the sound because we put a premium on improvisation. Nevertheless, the arrangement was always completed just after Mr. Furusawa introduced a new composition.

 

The Supreme Chain

 

I used a phrase, “rhythmic pattern.” But this is not an appropriate expression for Mr. Furusawa.  Usually, “rhythmic pattern” means a repetition of one or two measures, but he never played the same sound. He carried the music forward step by step, with his original rhythms. They were not fixed patterns. There were various nuances of note which was one of the most important elements of music. The content of thought on drumming was one of the most important matters to form the beat as well as musical factors like choice of instruments, tone, volume and speed. He performed while thinking simultaneously about what was needed now, how should he do it, how other members were thinking, what would be the result of the next shot and so on. He must have sharpened his senses, as a good improvised line yields a good comping, and vice versa. . It is like a chain of well designed, sophisticated and lively ad-libs. As a result, good rhythms and swingy beats were achieved. Running out of ideas or phrases could lead to the breakdown of rhythm. Rhythm cannot exist independently, but is a result of consecutive and quality conversations. The Supreme Chain was made by various factorial effects, such as the brilliant imaging of his composition, his attention to members’ performances both aurally and also visually and his peculiar gut feelings. Together, these created “Mr. Furusawa’s rhythm.”

Furusawa and Hiroki

 

Respect

 

I often hear the word “respect” come up in conversations with my friends in New York. In a multiethnic environment, it is necessary to respect each other. Mr. Furusawa grew up in the repressive environment of an occupied country. He must have experienced unreasonable things. During the postwar years of recovery, he had to develop his own ability to survive. He studied hard at a college of music in Tokyo and became a musician.

In the college, there was a strong boss-subordinate relationship in both coursework and also after-school activities. I became a member of the “Furusawa Ryojiro Quintet” at age 21. I was just a fledgling musician. Even still, Mr. Furusawa introduced me as an accomplished musician to other musicians, persons involved, clients and his friends wherever we went. He treated me as an equal partner to raise my awareness as a member of society, although I was just a cub with no experience or ability. Through this, I first understood the concept of “respect.” Mr. Furusawa was 32 years old at that time. Only 10 years had passed from his debut as a professional musician. But, he was already gentlemanly, logical and clear-headed. I learned that creativity could hold only when the people involved were respecting each other. I still have photographs of those days. I see myself in the photos as a weakly boy among hardened musicians. Maybe I belonged in the next generation of those days. I guess I sometimes bothered him. When my first concert with him was finished, he said to me, “Start with your best phrase!”

 

Powerful Music

 

His students often mimicked Mr. Furusawa saying, “Nandatte?” (Pardon?) They made fun of his heavy accent. He had lived for about 40 years in the town of Nishi-Ogikubo after he moved from Sendai at age 18; however, he never lost his Sendai accent. It is quite common for people from other provinces to accept the standard pronunciation of Tokyo, as the other people around influence them. But he did not. He was not clumsy. It was because he had an original sense of rhythm. In other words, he had a stubborn will about his native dialect. This original sense of rhythm yielded his powerful music. He was not influenced easily by other people. He did not have a fear of being different from other people, even living in the megalopolis, Tokyo. He was clever because he knew that the communication of ideas and significance was the first priority, rather than one’s fluency. He wanted to express many things. He wanted to play drums as much as possible. He created many melodies. He really enjoyed his performances. He was always curious about people. He was sensitive to the variations of the street. He loved cigarettes and Shochu. And he wanted to spend his whole life with his friends and colleagues. Now, Mr. Furusawa must be in the happy land of his hometown.

 

 

June 18th, 2011 (C) hirokimusic

ミュージックワークショップにおけるファシリテーターについて
2011/03/23

ファシリテーター:教育、自己表現などあらゆる創造活動の現場で進行、引き出し、促進、調整する役割の人。(本来もっと広義に使われますが、これはMWSに当てはめた場合の表現です。)

私は30年弱先生業もやっていて、そこには「指導」という概念がありました。しかし最近ワークショップにおいて「インストラクター」という表現が引っかかっていました。「指導者」「教える人」という意味だからです。「指示」「命令」という別の意味もあります。

1984年に始めたワークショップ。一つのテーマを共有し、自分も多くを教わっているという状況が続きました。……10年ほど前、音楽療法の仕事に関わったときに「ファシリテート」という概念を知りました。当時大手楽器メーカーなどの企業も使い始めていたころです。私は「良いな」と思うと同時に、音楽の現場に於いては「弱いな」とも思いました。「もっとセッションリーダーや音楽監督が責任を持って強く指導した方が良い」と。同時に「馴染みがない」とも感じました。

しかしこの二年間、再始動してみて実感するのは、私の立場はもはや明らかに「ファシリテータなのだ」と言うことです。参加者と同じところにいて、共に学ぶ、案内役を兼ねた一参加者。音と言葉で上手く伝えられない時は自分の力量不足だとも思います。

ファシリテーターという表現導入と共に、「指導」と言う表現も廃したいと思います。

ワークショップ10年ぶり再開を機に、新しい概念をこの場で示し、皆さんと共に歩みたいと思います。

PS:なので私を廣木先生と呼ばないで下さい。「ヒロキ」でお願いします。

尚、2011年4月発売のjazz guitar bookの寄稿には間に合わず、以前の表現になっています。

 

Music Workshop 2011/1 名古屋〜岡山〜広島の旅レポート
2011/02/04

▽1/27 MWS東海の場合
ここにはかつて東京の塾に来ていた近い世代の頼もしい三人のギタリストがいる。もう今となっては私が頼り切りだ。世間では私がギターに興味が薄いことを見抜かれてか、どこへ行ってもギタリストの参加者、お客さんは少ない。しかし今日は名古屋で活躍されるギタリスト青木弦六氏が来てくれた。デュオでスタンダードをやった。小気味よく柔らかく展開する弦六さんの演奏に、元塾生達も満足そうだった。他の参加者はベーシスト、ボーカリスト、女性ドラマー。ボーカリストはもちろん全員女性で、ソウルを歌う人、オリジナルを弾き語りする人、インプロも交える人と様々だ。時代は進んだ。

おかげで打ち上げは賑やかだった。平日夜3時間のコンパクトなワークショップゆえ、打ち上げは特に大事な時間となった。スタジオでの緊張が融け、疑問、質問が続出した。私は、偉大な師匠、良い先輩に恵まれたから、今は「教わった事、解ったことは全て伝える」というスタンスにいる。大いに利用して欲しい。そして打ち上げは出るべき。

▽1/29 MWS岡山の場合
今回も多種多様な顔ぶれだった。ジャズ、ロック、ブルース、クラシック、シャンソン、和太鼓、ストリートダンス。ここのミュージシャン達は他ジャンルの人達に聴いてもらうこと、聴くことを楽しんでいる。いや、他ジャンルだとは認識していないのかもしれない。音楽という音に全てを託す表現の世界。それぞれのスタイルの奥にある人そのものを視ているのだろう。

<Locking>と呼ばれるストリートダンス。リズミカルでハード、モダンバレーの優雅さも取り入れた新しいダンス。個々が即興性とオリジナリティを競い、個性を認め合い連帯感も生まれるストリートダンスは実に良い。中1女子のFちゃん、普段はヒップホップで踊るが、前日に「私が弾く即興でやってみようよ」と提案した。ビックリしてあまり寝られず、本番前も小鳥のようにお母さんの側で不安に駆られていた。聴いたことがないアコースティックギターの演奏、私だって弾いたことがないことを弾いているんだよ。最初は戸惑ったが、次第に身体が動き始めた。彼女から「あ、何でも良いんだ!」と無言のメッセージが聴こえた。若い人は速い、彼女がリードする場面も生まれた。お互い即興をしながら「そろそろ終わろうか」のテレパシーも通じた。もう一曲、委員長T氏のドラムスと私が下手なベースを弾いてファンク。こちらはいつもやっているビートとあって最初から躍動した。創造性溢れカッコイイ。初参加で大喝采を浴びた。それを横で観ていたFちゃんの兄は静かに奮起した。兄D君はハンディを持つ。小さいときに母親に泣きながら「ドラマーに成りたい…」と懇願したという。彼には天性の求心力と説得力がある。当然音色も太く、バスドラはおなかに響く。17歳になって体力も付いたせいもあると師匠の弁だが、5分以上にも及ぶ色彩溢れるみごとなドラムソロを聴かせてくれた。2年程のお付き合いだがこんな長尺の、それもパワーが落ちずアイディアが尽きない演奏には驚いた。こちらも拍手喝采。そしてみんな泣かされた。本人の努力と師匠の指導、家族の支えの賜物だが、今日は妹のダンスが刺激になった。命の連鎖だ。早い時間に若い二人が高いパフォーマンスを見せてくれたことによって、私を含め大人達が後には引けない状況が創られた。

▽1/30 MWS広島の場合
ここにはピアニストなかにし隆氏を中心としたジャズシーンがある。氏を慕いジャズを好むピアニスト、ボーカリストが集う。人口が多ければそのシーンはスタイルごとに分割されていくことは必然的に起こりうる。更に人口が多い我が東京などはもっと細分化され、そうなると本質的に自分に合う人を見つけるのが難しくなる。考えやセンスを共有できる人に出会うのにカテゴライズが邪魔をする。どうすればいいか。常に何かしらの形で表現し続けていないと出会いが生まれない。日本人が苦手なアピールだ。大都市の欠点と、その打開策を他地域に行って知る。

上記の心配を余所にここではスタイルが近い者同士がしのぎを削る。ほんの少しの違いや差に自己を見いだす。この、ちょっとの違いというのは、上手く修正、改善できれば本質に近づくチャンスを掴める。どんな分野でも最後はこの小さな差で勝負する事になる。最後まで諦めず走りきった者が勝つ。大江健三郎氏曰く「もっと注意深くなくてはならない」、イビチャオシム氏曰くの「90分走り切れ」があらためて突き刺さる。

6歳の女の子が日本語の歌詞でロックンロールを歌った。ワークショップ最年少記録だ。「みなさん、どうもありがとうございました」に沸いた。年配で楽器を遅く始めた方々も来て下さった。ご決心に敬服。ご本人達は自分の演奏に不満が多いとのことだが、私は一概にそう思わない。発せられる音や声の向こうに視えるものが一味違う。音が全ての音楽。しかし実際はその先にもう一つの世界がある。

2011年頭から大きなチャンスを戴いた。一人一人、一曲一音に教えられる。

あとがき:五日間よく呑んだ。初日に旧友に囲まれたことがきっかけとなって、人のせいにしながらそれは毎日続いた。話しても話しても尽きない。ミルトン ナッシメントの名曲<Encontros e Despedidas>(出会いと別れ)が頭の中でずっと鳴る。理解が深まるほど音が響き、別れは厳しい。110204(廣)

In Memoriam of Mr. Yoshitake Sugaya, Genius Electrician: Dedication to His Life of Music
2010/10/04

Two great mentors, who developed, manufactured and maintained my musical instruments, regretfully passed away in July 2010. I lost two giants during a two-week period. I write this essay in order to bring to light the great achievements of these two people. I will begin with Mr. Sugaya.

July 6, 2010
I was at Okayama Station on my return route to Tokyo following my concert tour. As I was waiting for a bullet train on the platform, I heard a roaring sound like a snare drum roll. A sudden shower came pouring down and hit the housetops with shattering force. The travelers were thrown into commotion by the noisy sound as if it was produced by tens of drummers bopping the snares. I thought it was a revelation of the end for the productive and meaningful days of my concert tour. But I was wrong. It was a presentiment that acquainted me with the demise of my mentor.

@Hiroki's Office Mar.9.2010

A Young Genius
Mr. Yoshitake Sugaya was an electrician and an acoustician, who loved guitars throughout his life. He majored in electric engineering at the university and continued his studies at technical school after graduation. He never lost his inquisitive spirit, and he was always around his clients. Forty years ago, a major musical instrument store branched out to the urban center of Tokyo. Mr. Sugaya was appointed to the key post of the electronic instruments section of the store. In his early twenties, he was already very savvy and knowledgeable. His orders were always placed from a musician’s point of view and in consideration of his clients’ needs. He handled the instruments using his skilled craftsmanship. For example, some imported amplifiers were not in perfect condition or the screws were not tight. Such defects could cause crucial troubles, because the amplifiers were always used under the vibratory condition. Mr. Sugaya gave a meticulous inspection to each amplifier before placing them on sale. His integrity and seriousness sometimes were a menace for the manufacturers, but he was always a dependable partner to the musicians and music lovers. He also worked for an audio manufacturer as a technical adviser and contributed to the development of exquisite speakers. Mr. Sugaya’s father was a carpenter for temples and shrines. An anecdote that conveys the highly skilled job of his father, states that two wooden pieces shaved by him could be adhered by a drop of water. Like father, like son.

Akihabara-1

Handmade guitar amp
I have used many guitar amps from the time I started playing the guitar. Mr. Sugaya taught me the complete functions of each amplifier. He also introduced me to many new products. I purchased seven or eight amplifiers in approximately ten years, but none of them satisfied me, because my sound preferences continually alternated. I had continued to grope for a dead set amplifier, but my search was in vain. I concluded that there was no ideal amplifier among those that were commercially available. Recognizing my frustration, Mr. Sugaya suggested that he make an original handmade guitar amp for me, and that was the start of our intimate relationship. I felt that he recognized me as an accomplished musician at that time. We had many discussions on the guitars that I primarily used, as well as the strings and picks that conveyed the sounds that I wanted and needed. From that point forward, he chose the components and circuits for me. Herewith the first handmade amp was manufactured about 25 years ago. It had fat sound with high stability and reliability that was unparalleled in the history of amplifiers owing to the distinguished circuit and carefully screened parts. In the first place, the power transformer and output transformer are the most important components for guitar amplifiers; they fill the role of the engine. The power depends on the capacity of these devices. He taught me that good amplifiers were inevitably heavy. An excellent amp will respond well to both a delicate and strong performance, and the success of the performance rests with the player.

Playing "Gibson Super 400"

Top-notch craftsman
All guitar amplifiers crafted by Mr. Sugaya were trouble-free. Any soldered joint never disengaged. When I witnessed the careless handling of my amp by luggage handlers at a foreign airport, I was terribly disappointed, but it worked well in the concert as if nothing had happened. I observed his work operation many times, and found that all the procedures were well arranged. He always kept cool. Furthermore, he never cut corners. He was a world-class craftsman in every way. Many people in various fields look up to Mr. Sugaya as their mentor: recording engineers, sound engineers, audio manufacturers, guitar mechanics and musicians.

Akihabara-2

Relationship between components and sound
I had spoken to Mr. Sugaya regarding the fine tuning of my guitar amplifier in order to accommodate the slight changes of my style of renditions and musical concepts in recent years. The master was kind enough to come to my home, and we scrutinized the sound while playing the guitar. We worked very carefully listening to the tone and sound. We went so far as to concentrate on the certain frequency bands of the sound to modify the amp. We also did fine adjustments of the height of the pickup of the guitar. We even slightly changed the spacing between the speaker box and the back plate. I gained valuable experiences during these productive days that I could never have experienced through the musical performances. For example, if I requested a boost to the basso, Mr. Sugaya could select the most appropriate parts such as resistances or condensers. He was very knowledgeable about what component should be replaced so as to change the sound in a specific frequency band. He was indefectible. While most musicians try to control the tone or sound quality by the delicate alteration of touch, Mr. Sugaya achieved the control of them by the designing of circuit and optimum selection of the components. As to electric circuits, a replacement of a component can cause a negative effect. In the tenuous situation of effects and side-effects, he satisfied our requests by maintaining an appropriate balance. He had a vast amount of familiarity, ideas and experiences, beyond one’s imagination. He also knew where he could buy each component in Akihabara. I used to run errands for him. It was difficult for me to find the components that he had instructed me to buy, so I had to ask where to go again and again by a pay telephone when there was no cell phone service.

This is "SUGAYA Amp"

Accomplishments and Absence
Mr. Sugaya could not drink. I do not play golf, mahjong etc. So during our 36 year friendship, we had nothing in common to talk about except music and musical instruments. He moved to my neighborhood 12 years ago, so we had kept in close contact. He was always available for me, so I never had to worry about my instruments. Last May, I was going to go to Akihabara to purchase electronic parts in an effort to replace a volume of my amp. I still keep the list of the parts. But I could not complete it. It should be a final modification. I know what components should be replaced, but I cannot do it by myself. I came to be able to apply solder, learning by imitation, but I cannot retouch the circuit in case when there is unexpected trouble.
I recomposed a speaker box of my amplifier after Mr. Sugaya passed away. Although I did not have any knowledge of woodworking when we started to make a handmade amp, I learned step by step how to choose appropriate wood materials, the method of shaving and coating, and so on. Now woodworking is my long suit, and I have made about 20 speaker boxes so far. Mr. Sugaya always instructed me to consider the size of the box in view of portage. Through his experiences of operating a sound engineering company, he concluded that equipment that was difficult to carry had no use in daily pursuits. However I made a considerably bigger speaker box contrary to my mentor’s instructions. I believe a big speaker box is required to bring out a latent faculty of Mr. Sugaya’s amp. The big speaker box has been very successful. I hear Mr. Sugaya’s voice from heaven, “It is okay if you can carry it.” I achieved my ideal sound at long last, but, regrettably, Mr. Sugaya will never hear the sound.

Akihabara-3

Sugaya’s Sound
Mr. Sugaya was always with me. He could always answer my questions, repair my instruments, or assemble my amp. His demise reminds me of the magnitude of the maintenance of instruments that safely go on stage. His contribution to my music was too immense. I cannot receive his valid and faithful answers any more, which would be always justified in the last analysis. I plumbed the depths of despair when Mr. Takayanagi, my music mentor, passed away 19 years ago. I was completely at my wit’s end confronting this huge loss. However, it was also my start as an independent-minded musician. I started to take the lead. All professional musicians experience such self-subsistence. I learned a lot of things from Mr. Sugaya, but I cannot take over his skill of electricity. He concealed his illness owing to his refined nobility. Nobody could have expected his last sleep. He was only 63 years old, and it was an untimely passing. I will always remember that half of my sound depended on Mr. Sugaya’s ability. I offer my deepest condolences to his family and loved ones.

@Sougetsu Hall Oct.22.2006

Translated by Sumihisa Matsuyama

追悼・菅谷吉剛 <音楽のために電気を極めた天才エンジニア>
2010/08/17

7月、楽器の開発・製作やメンテナンスをして戴いてきた師匠お二人が相次いで鬼籍に入られた。たった二週間で巨星二つ失う。これが人生か。。
せめても、功績をご紹介したく駄文にしたためる。お一方ずつ、、菅谷さんから。

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2010年7月6日。私はツアーを終えての帰路、岡山駅にいた。エスカレーターを上がり新幹線ホームを歩くとしばらくして、とてつもなく大きなスネアドラムのロールのような音が聞こえてきた。ザーーッ!!周囲も騒然となるくらいのそれは小太鼓奏者が何十人もいるかのようだ。突然のどしゃ降りが暑さでカラカラに乾いたトタン屋根を叩く。楽しく有意義だった滞在に後ろ髪引かれながらの帰途に天が区切りを付けてくれたのだと思っていた。
しかしそれは違った。恩師の不帰を告げるものだった。

♪拙宅にての作業 2010/3/9

【若き天才】
菅谷吉剛(スガヤヨシタケ)、電気学者、音響学者。そして無類のギター好き。大学で電気を学ぶも飽きたらず専門学校にも行き勉学を続けた。常に音楽の現場に足を運び探求を続けてきた。約40年前、大手楽器店が都心に旗艦店を出すに当たって核となるブレーンとして菅谷が登用された。当時20代前半の菅谷はその時代既に知識と見識が群を抜いていた。更に、ミュージシャン視点の楽器のあり方、お客目線でのニーズを的確な物言いでメーカーや輸入業者に注文した。輸入されるアンプなどは、日本人のクラフトマンシップや常識とはほど遠く、実はネジ止めもしっかりされていない事が多い。ただでさえ振動が大きいアンプ類、そのままで鳴らし続ければ間もなく異音が発生してくる。菅谷は一台一台点検し、ネジをしっかり締め直し店頭に出していた。そんな誠実な実力派は、楽器業界にとっては怖い存在だっただろうが、ミュージシャンとお客にとっては頼もしい限りだった。若くしてオーディオ会社の顧問も務め、スピーカーなど名器誕生に貢献した。そんな菅谷の父君は宮大工。その逸話、板二枚をカンナで削って、水一滴垂らすと二枚の板は吸い付き離れることは無かったという。血は引き継がれている。

♪部品・ミクロコスモス

【アンプ作り】
ギターを始めて以来、何台のギターアンプを試しただろうか。そのたびに菅谷は詳細に説明、また知らないアンプも数多く紹介してくれた。十余年の間に7~8台は購入したが、何度買い換えても自分の求める音は少しずつ変化し、模索の時期は続いた。”本当に欲しい物は売っていない”という結論。そんな私を見て菅谷は「オリジナルアンプを作ろう」と提案してくれた。ここからが個人的なつき合いの始まりでもあり、ミュージシャンとして認めてもらえた瞬間でもあった。ギターは何をメインに使うのか、弦は何を張るのか、その弦高は、ピックは、また肝心のサウンドはどういう方向かなど詳細に話し合った。このことが後述の回路と部品の選択に繋がる。一号機はもう四半世紀も経つ。その音は、優れた回路と厳選された部品によってギターアンプ史上類を見ない線の太さと安定感、存在感を持つ。そもそもアンプは電源トランスとアウトプットトランスというものが重要だと。まさにエンジンである。この容量が大きくないとパワーは出ない。「良いアンプは重いよ」と言うことも教わった。どんな激しい演奏にも、繊細な表現にも反応するこのアンプを持ってすれば、あとは我ら奏者次第である。

♪AKIBA

【超一流の職人】
菅谷の作ったギターアンプは故障が一回もない。ハンダ一つ外れたことが無い。海外の空港で係員が機体から降ろすときに投げるのを見て絶望したが、演奏会場では何事もなかったように鳴った。私は何度も菅谷の作業の瞬間に居合わせる幸運を得てきた。手順がきちんとしている、絶対に焦らない、そして絶対に手を抜かない。道具の選び方、時間のかけ方、何をとっても超一流の職人がそこにいた。レコーディングエンジニア、PAエンジニア、オーディオエンジニア、リペアマン、ミュージシャン、楽器業界…各分野に菅谷を師と仰ぐ人が大勢いる。

♪ギブソン・スーパー400でサウンドチェック

【部品と音色の連動】
ここ近年、私の奏法や音楽観にも微妙な変化があって、それに対応するべく、ギターアンプの微調整をしてもらっていた。巨匠直々拙宅に足を運んでもらい、私もそして菅谷もギターを弾きながら音色のチェックを入念に行う。音色の、音響の、周波数帯域のどこを聴くかという耳を研ぎ澄ましての作業。ギターのマイクをわずかに調整したり、スピーカーボックスの後板を少しずつ開けてみたり閉じてみたり…。この集中した時間が演奏の場では得られない貴重な体験となった。もうほんの少し低音が欲しい、、そういうリクエストに対し持参した抵抗、コンデンサなどの部品を選択し交換テストする。どの周波数帯域を変えるにはどの部品を変えれば良いかと言うことが完璧に頭に入っている。そこにミスはない。私達ミュージシャンは、楽器を扱うちょっとした動作の違いで音色や音質が変わることを演奏技術として備え、コントロールを目指すが、菅谷の場合、音色音質と回路、部品の連動が完璧に結ばれていた。電気の世界でも、何かを変えようとすると何かの良さが消えたり、害を及ぼしたりすることがある。あちら立てればこちら立たずの中、絶妙にバランスを考えながら、我が儘なミュージシャンのリクエストに応える。それは想像を遙かに超えた知識、論理性と経験値だった。また、その部品が秋葉原のどの店のどの辺りにあるかまでマッピングされていた。私はよく使いに行った。携帯が無い時代は何度も公衆電話からかけて指示を仰いだ。

♪これが私の自慢のスガヤアンプ

【結実、そして不在】
酒を呑まない菅谷と麻雀もゴルフも分からない私とには日常的な接点はなく、話したことは全て音楽と楽器の事という36年間だった。特にこの12年は家もすぐ近くになり、何かあれば訪ねたり電話したりし、楽器で困ることは全くなかった。
5月末、アンプのボリュームを一個変えてみようということになり、私が秋葉原へ部品調達に行く事になっていた。その買い物メモは今もここにある。都合が付かずそれは叶わなかった。最後の最後の仕上げとも言うべき、また音色探求の小さなチャレンジでもあった。部品は分かっているが、私では交換することはできない。半田付けは見よう見まねでできるようになったが、もしもの事を考えるともはや回路に手を出すことはできない。

♪AKIBA

私は菅谷の他界後、スピーカーの箱を作り直した。木工は私の担当。とは言うものの、最初は木材の選び方から、塗料の種類、ヤスリのかけ方ほか全てを教わった。もう20台近く作っただろうか。初めてアンプを作ってもらった時からスピーカーの箱のサイズについて、「車に積むこと、実際に運ぶことも考えて…」と言われていた。PA(音響設備・設営)会社経営の経験から、毎日使うのに運びづらい物を作ってもしょうがないという理由からだった。しかし私は今回この教えを破って少し大きめに作った。スガヤアンプの潜在能力を活かすにはこれだった、大正解だ。「運べるならそれにこしたことはないよ」と聞こえてくる。サウンドは結実した。もう回路をいじることはできないがその必要も無い。でも、この音は聴いてもらえない。

♪2006/10/22・赤坂草月会館にて

【菅谷サウンド】
いつでも相談できる、いつでも直してくれる、いつでも作ってくれる菅谷の側にずっといた。自分の楽器、オリジナル機材のメンテナンスが、安心してステージに立つことの前提として、これほど大きなウェイトを占めていたとは。この世界に入って以来ずっと百人力を得、勝手に大船に乗っていた。その迷いのない、こちらが分からなくとも後で必ず正しかったことが証明される回答はもう得られない。
19年前に音楽の師であった高柳の落命のとき、目の前が真っ暗になり指標を失うことの哀しさと絶望を知った。またそれは誰にも与えられる音楽家として先頭に立って生きていくことのスタートラインでもあった。しかし今回は、これだけ多くの指導を仰ぎながら、私には電気のことをほとんど引き継ぐことができない。
気高さゆえ病気のことは誰にも言わずに迎えた最期。あまりに早すぎる63歳での急逝。
今思う、私の中身の半分は菅谷サウンドだった。 合掌

♪いろいろお話をお聞かせ下さり、多くの場に立ち会わせて戴いた菅谷家ご遺族に心から感謝申し上げます。

同時代人として<音楽塾コンサートに寄せて>
2010/05/31

サッカーというのはあの広いピッチを11人で賄うわけだから、その「戦術」ということが大きな要素となる。監督はそれを様々な角度から予想し構築して選手に伝える。しかし実際に90分間ピッチを駆け巡るのは選手だ。バランスが崩れたり、方針が行き渡らなくなったとき、監督はベンチからたとえ届かなくとも大声で指示するしかない。きっと歯がゆいことこの上ない。監督という仕事は、気持ちは一緒に闘うのだろうが、9割以上は試合までの全ての準備なのだろう。

音楽の指導者もそこは同じだ。自分がプレイする訳ではなく、演者は生徒だ。特にジャズなどアドリブを伴った音楽の出来不出来は「現場での判断能力」に大きく関わる。曲、リズム、構成など大まかな筋は決めてからスタートしても、いざ始まってみれば、共演者や聴衆に影響されながら、その時良かれと思ったこと、より面白い方向にと進んだり、わざと裏切ってみたりと、簡単に言えば、蓋を開けてみなければ分からない要素に満ちた世界。言うまでもなく本人次第。そしてそれが即興だ。

♪サポータ三氏に感謝・小太刀のばらp 嶌田憲二b 斉藤良ds リハ、本番で延べ60数曲を演奏

上の世代となるとともに、指導や助言といった場面も増える。二つのスタンスがある。一つは、100の内2~3しか語らないやり方。絞り込んだ要点のみ。師匠高柳が弟子に対しそうだった。当時まだ聞く耳を持たない私は、師の生の声の深遠をあまり理解できず、遠逝後少しずつ咀嚼いや反芻が始まった。既に現場にいる人間に対してはこのやり方が良い。言い換えれば自分で分からなくてはならないと言うこと。二つ目は、自らの方法論と経験をできるだけ説明伝達するやり方。アマチュアミュージシャンにはこの方法が良い。なぜなら現場を経験するチャンスが少ないからだ。バーチャルでも良いから自らの演奏状態を想像し、適応力拡大に繋げて欲しい。更にこの両極は併用もされる。それだけに社会が多様化し、伝達にも柔軟性を求められる。

♪トリは3ギター競演!同じ楽器同士はセンスの見せ所

古い人間がした回り道は後の世代はしない方が良い。なぜなら新しい世代、そこにはまたしなくてはならない回り道があるからだ。

最近のモットーは「教わったこと、分かったことは伝える」。同時代人として全てを共有する。一歩でも前に進むために。100530(廣)

ブルースの薦め <音楽塾コンサートに寄せて>
2009/12/06

ジャズの基本には循環コード(Rhythm change)とブルースがあると言われる。循環コードでの巧みなフレージング、ブルースという様式の中での話法がジャズの根底に流れる。

Rhythm change:循環コードは、ガーシュインの♫ I got rhythmのコード進行に後から替え歌がいっぱいできて、原曲タイトルをもじってそれらをRhythm changeと言うようになった。その単一調性の中で先へ先へと進むリズミックなコード進行はモーション(進行、移動、運動)することが当たり前な米ジャズメンのリズム感、言語感覚、民族性に起因する。かたや日本語人は一つの場面をじっくり動かずに楽しむことができる静的な美学を持つ。循環コードでのフレーズ作りは日本語人にとってはどんどんグルグル動きすぎて、馴れないと忙しくてついていけない。ジャズの基本を身につけるのに習熟を要する。 (続きを読む…)

Picking Equals Inner Strength! HIROKI Koichi
2009/09/01

Liner note : CD Second Concept / TAKAYANAGI Masayuki (JINYADISC B-1920)

Masayuki Takayanagi is highly esteemed by musicians and music fans the world over. His sound is unsparing, definite, sublime. People familiar with his music and his rigorous speech and conduct may be surprised to learn that Takayanagi, like many other jazz musicians, had a rich sense of humor. This imposing figure produced unimaginable strings of puns, easing the tension of people around him. Jazz musicians are good at puns and word play. Actually, jazz has always been a genre in which themes and syllables are tweaked and twisted to connect with and give rise to the next phrase. Imitation, twists, irony, anticipation… using these techniques in playing also helps train the language area of the brain, and words begin to flow more freely. Puns tend to come up without warning even in the middle of serious conversations, adding levity and also bringing in important new ideas. Word play is neither meaningless nor idle. And in the end, the tension remains.

Quotes from Takayanagi

Takayanagi always said, “Reading and writing is a fundamental part of being human.” One of the first to know that the creation of sound sequences and the composition of sentences were closely connected in the human brain, he also said, “Great improvisers are interesting conversationalists and excellent writers.” Takayanagi was a proponent of extensive reading and listening. He assigned his students a written paper in every lesson, telling them, “If you can’t write, there’s no way you’ll be able to ad lib.” (続きを読む…)